前のエントリ-では黙秘権以外にも言いたいことがあったので、裁判員が黙秘権を否定している、と言う点について若干説明不足となったかもしれません。
そこでもう少し説明を補足しておこうかと思います。
和歌山毒カレー事件では被告人の完全黙秘がふてぶてしいとメディアでネガティブに伝えられました。
それに対応して、第一審判決は異例にも黙秘権について述べています。この部分は黙秘権を理解するのに役に立ちますのでそれを抜粋しましょう。
(1)黙秘権制度の趣旨,目的
これまでの検討から明らかなように,本件の事実認定にあたり,被告人が黙秘権を行使して本件に関し供述をしなかったことは,一切事実認定の資料とはなっていない。
しかしながら,被告人が黙秘権を行使して供述することを拒んだことについて非難する論調も一部にあり,また,弁護人は裁判において事実上不利益に扱われないか懸念していることから,被告人の黙秘権の行使について一言する。
刑事手続は,国家権力が個人に強制力を使ってまで事案を解明することを求めており,訴追機関と被訴追者である個人が真っ向から対立することを予定している。しかしながら,訴追機関と被訴追者の力のアンバランスは明白であり,それが種々のえん罪を生んできたことは歴史上明らかである。そこで,法は,力のアンバランスが悲劇を生まないよう双方の力のバランスを保つため,被訴追者たる個人は国家権力の行使者である訴追機関に対して自ら弁解を主張する必要はなく,訴追機関側が考えられるあらゆる弁解をその責任において排斥すべきこととしたのである。そして,そのために設けられた制度が黙秘権である。
ところで,事実上黙秘することは,特に権利とされるまでもなく,誰にでもできることである。したがって,黙秘することを「黙秘権」という権利まで高めた眼目は,まさに,黙秘したことを一切被訴追者(被告人,被疑者)に不利益に扱ってはならないという点にあるといわなければならない。
(中略)
社会的には,不利な事実に対して黙秘することは,それが真実であって反論できないからであるという感覚の方が相当なのかもしれない。したがって,黙秘したことを被告人に不利益に扱ってはならないという黙秘権の制度が,一般世人にとって,納得のいかない印象を与えるのはむしろ当然なのかもしれない。
しかし,刑事裁判においては,被告人が黙秘したことを不利に扱えば,被告人は弁解せざるを得ない立場になり,結果的には弁解するだけでなく,弁解を根拠づけることまで求められ,ひいては,国家権力対個人という力のアンバランスが生む悲劇を防ぐべく,実質的な当事者主義を採用し,攻撃力と防御力の実質的対等を図ろうとしている刑事訴訟の基本的理念自体を揺るがすことに結び付きかねないのである。
したがって,黙秘権という制度は,むしろ黙秘に関する社会的な感覚を排斥し,それ以外の証拠関係から冷静な理性に従って判断することを要求していると解すべきであり,もし黙秘するのはそれが真実であるからであるという一般的な経験則があるとするなら,むしろそのような経験則に基づく心証形成に一種の制約を設けたもの(自由心証主義の例外)ととらえるべきものである。
(中略)
前述のとおり,被告人(被疑者)が黙秘した以上は,その黙秘の態度は,冷静な理性に従って,一切被告人(被疑者)の不利には扱ってはならないのである。
なお,本件において被告人が黙秘の態度を貫いたことに対し,一部強い反発が見受けられる。その反発する心情も理解できるところではあるが,前述した黙秘権の趣旨,すなわち,法は,えん罪という歴史上明らかな悲劇を防ぐために,人類の理性に期待し,あえて社会的には相当と思える感覚を排斥することを要求したという趣旨から考えると,やはり被告人(被疑者)の黙秘に対しては冷静な理性で臨まねばならない。
(引用ここまで・強調は私)
黙秘権とは「言いたくなかったら言わなくったってかまわない」にとどまるモノではありません。
「黙秘するのはあなたの自由だ。ただし、自分にとって不利だから黙ったんだろうってこっちは思うけどね」
と解釈するのは許されない、それが黙秘権です。
これはいささか私たちの日常的な経験則、一般常識から外れており不自然だ、と反論されそうですが、黙秘権という制度に関しては、あえてその日常的には相当と思える経験則を排斥しなくてはなりません。これは、なぜ黙秘権という権利が憲法上の権利にまで高められているのか、というそもそもの趣旨をガッツリ理解していないと実践出来ないことなのです。
裁判員は裁判開始前に黙秘権について裁判官から一通りのレクチャーは受けたかもしれません(但し裁判官にマニュアルとしてレクチャーが義務づけられている、という話は耳にしたことがないです)
しかし一度や二度レクチャーを受けたからと言って、おいそれと自分のものにできるわけではないでしょう。
被告人が供述しようと黙秘しようとそこにこだわってはいけない、被告人は供述すべきだと思ってはいけないし、何故黙秘したのかと推測してもいけない、
事実認定はあくまで被告人の供述の有無に依存しない他の証拠から行うべきだ、というのが法の要求です。
この不自然な判断が自然に実践出来るくらいにまで身について、初めて刑事裁判で裁く席に座れる資格があるのではないかと私は思います。
「自分がやっていないというなら、その根拠を言ってほしかった」「無実なら黙秘は駄目だ」という感想が記者会見で裁判員の口から出てくるということは、被告人は供述すべきだと思っているということですから、およそ黙秘権に関する理解が裁判員の血となり肉となっていなかった証拠です。これでは心証形成の過程で「あえて社会的には相当と思える感覚を排斥」しなかったかもしれないという疑いを十分抱かせます。
黙秘権に関する深い理解がきっちり身についた人間でなければ、刑事裁判で人を裁く席に座るべきではない、というのが私の意見です。
<追記>
黙秘権を根本から理解するには刑事訴訟法の「当事者主義」という構造から理解する必要があります。
そうすると、やはり裁判員制度を行うなら義務教育かせめて高校で憲法や刑事訴訟の基礎的な法教育を行う必要があると繰り返しておきたいです。
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