現代思想10月号より、裁判員制度を考える(6)ー「司法はポピュリズムの暴風にさらされている」
- 2008/12/03
- 00:12
(※前エントリーでご紹介した被害者参加制度は12/1から実施されました。)
ご紹介に入る前に、webニュースからですが、裁判員の通知をうけとった人々がそれをブログで公開したのが少々問題となっているようです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081130-00000502-san-soci
裁判員制度 誰になら話していいの?ブログはどうなの?
11月30日0時8分配信 産経新聞
裁判員に選ばれる可能性がある候補者の多くに29日、通知が届いた。最高裁から届いた封筒には、「調査票」やマークシート形式の「回答票」が入っている。どれもこれも初めて目にするものばかりで心配にもなるはず。そうなれば、不安は共有したくなるもの。家族に、同僚に、ブログでみんなに…。誰にまでなら話してもいい?
通知を受け取ったら、もう裁判員候補者。すると裁判員法のこんな規定が問題になる。「何人も裁判員、裁判員候補者もしくはその予定者の氏名、住所、その他個人を特定するに足りる情報を公にしてはならない」。そもそも、不当な圧力から裁判員を守るためにつくられた規定だ。罰則規定はない。
「何人も」とある以上、それには候補者自身も含まれる。次に問題になるのは「公」の考え方。最高裁関係者は「線引きは難しい」と認めながらも、「不特定多数に対し、個人が特定できるようなかたちで公表するのは違法」と説明する。
たとえば、家族の間で候補になったことを話しても構わない。職場の上司や同僚に打ち明けるのも基本的には大丈夫だという。
では、このところ急速に広まってきたブログはどうか。匿名なら問題ないように思えるが、そこに書かれた別の情報とつきあわせて個人が分かるようなら、グレーゾーン。もちろん、実名のブログなどで公表するのはダメだ。
今回、通知された候補者としての立場は来年12月末まで続く。
そりゃ人に言いたくなったりブログで言いたくなるのも当然です^^;
裁判員であることを公表すれば、事件関係者が不当な圧力、脅迫をかけてきたり、逆に賄賂の可能性もあるでしょう。それらから裁判員を守るためという裁判員法の趣旨はもっともだし異論はないのですが、一方で裁判員制度を実施することに国民的合意が全くとれてない状況で沈黙を強いることは、言論の自由を侵害されても怖いからと萎縮する体質を強化する作用を持つんじゃないかと私は憂えています。
こんな心理負担を国民的合意無しにいきなり押しつけてくるのはおかしいじゃないか、
だいたい裁判員なんて国民の7割がはんたいしてんだぞ、
密室で国民的な話し合いもないままたった5ヶ月で強引に成立させた物じゃないか、
しゃべるなという負担をかけるなら、もっと国民が納得してからにしろ
なんて猛抗議が、日本でなかったらきっと起きるでしょう。しかし、そんなことがおこることもなく、しかたないとじっと黙って我慢するお上に従順なおとなしい国民性。もし他に理不尽な言論封じが少しずつ行われても、きっと黙って我慢するのかもしれません。
こんなトップダウンの「国民の司法参加」なんて、なんともまずい味しかしないのですが・・
さて、現代思想10月号 『小田中聰樹 あるべき「司法への国民参加」とは』を、引き続きご紹介します。
司法への国民参加
そもそも国民が主権者として裁判に関わるというのは当然の権利である。
だから裁判公開の原則があり、私達はそれで得た情報に基づいて裁判を批判する自由があるのだ。
「制度としての」国民参加は法制化されてこなかったものの、裁判は国民にオープンであり、裁判を傍聴したり、救援会活動に参加して公正な裁判をもとめたり、弁護人に接して情報をもらったり、署名を集めて裁判所にしたりするのも自由である。もちろん改善すべき点はたくさんあるものの、裁判を批判、検討し、抵抗、阻止する場が国民にも弁護人にも開かれていた。
ところが、今回の司法改革で、裁判官の隣に一般国民が座るという「制度としての」国民参加を定めたものの、そのカウンターのような形で規制が厳しくなっているのだ。
例えば、証拠についても、弁護人に開示して見せはするけれど、目的外の使用を刑罰で禁じている。しかし私達は証拠を見ること無しに裁判批判はできない。弁護人も刑罰を科せられるかもしれないと思うと証拠を外に見せるのに慎重にならざるを得ない。学者にとっても供述調書や鑑定書といった証拠にもとづいて批判することが困難になると予想される。
また、裁判員への接触禁止規定があるので、ジャーナリストがうっかり裁判員に接触することは禁止される。
このように、裁判員制度は開かれた裁判のイメージを与えるけれども、実は、裁判員の守秘義務と裁判員への接触禁止という規定で、逆に裁判員を法廷に囲い込み、一般の市民から遠ざける閉ざされた制度になっている。
制度化するならば、参加する者がポツンと社会から隔絶された形で参加するのでは無く、いろいろ勉強したり他人の意見を聞いたり、社会化された意見や経験を反映できる立場に立って参加できるものであるべきだ。そうでなければ反映されるのは「その人個人の意見」ではあっても社会化されたものとは必ずしも言えない。ところが偏った権力的発想に基づいて司法参加を制度化したことにより、こういう観点が欠損してしまう。
守秘義務は公判終了後も続きます。つまり墓の中まで持って行けと、上級公務員や軍人並みの義務を強いるわけで、精神的苦役以外の何物でもないですね。
またこれは、もし評議内容が、その人にとって偏見に満ちた納得いかないものだったりしたときに、是非この問題点を広く話し合ったり意見を聞きたいと思っても、永遠に世間に問題提起出来ないことを意味します。問題があったことすら言えないのです。
すると、裁判というものを自由にオープンに討論できる雰囲気は失われ、慎重に黙らざるを得ない、という雰囲気が結果的に生まれてしまうでしょう。これでは実質的に司法に参加しているとは言い難いのではないでしょうか
だいたい、裁判員制度を慌てて設けるよりも、早急に改革せねばならない事項ははっきりしているはずです。代用監獄制度の廃止、取調の可視化や弁護人の立ち会いの実現等です。これらの冤罪の温床が日本の刑事司法の一番の病巣です。これはずっと国連から勧告されていることでもあります。
それに加え、もう一つ見直さねばならないのは報道の在り方です。
警察発表のみに頼った一方的な視点からの情報、そしてそれに基づいて、コメンテイター達が好きずきに推理ごっこを繰り広げ、茶の間に無責任な偏見を届ける。
現在京都舞鶴の女子高生殺人事件について、60歳男性の家宅捜索が行われています。これに弁護士が積極的に立ち会っていることは、大変好ましいと思います。
他方マスコミは、この男性が近所でも偏屈で評判が悪かったことを報道しました。取材して得た事実であるには違いありませんが、これは、やはりこの男が犯人だという余談、印象を与えるものです。
裁判員は普段職業柄、意図的に犯罪報道を見ないようにしている裁判官とは違います。
裁判員制度に向けていまだ、犯罪報道の在り方の見直しすらしていない状況では、本当に先が思いやられます。もし、松本サリン事件で河野さんが起訴され、その時裁判員制度があったとしたら、河野さんは有罪になっていたでしょう。マスコミは何も変わっていないと河野さんはずっと言い続けています。
これらの重大で明白な問題に手つかずのまま新しい制度を設けても、それは「腐った土台の上に家を建てるようなもの」でかえって事態は悪化するのでではないでしょうか。
司法への国民参加は、広い多角的な視野に立って、制度的な面だけでなく非制度的な面においても検討していくべきである。しかし裁判員制度はそういう視野にたって検討されたとは言い難い。
制度的にも欠陥があり公正な裁判が期待できず、しかも国民の7,8割が疑問を持っている制度を強引にスタートさせることは、制度的欠陥以上に重大な国民的信頼の欠如という欠陥を無視する愚かな行為といえるだろう。
司法においては、政治とは異なり、取引や世論操作、世論形成といったテクニックを用いて決定がなされるものではない。そういう政治的な決定手法とは全く違った原理原則に基づいている。特に刑事裁判の場合は、刑罰権という、軍事権に並ぶ最強の国家権力が行使される。刑罰権は国民の生命、身体について生殺与奪を決定するのだから、いささかもいい加減さのある決定手続であってはならない。司法制度は、法と正義と道理と良心に基づいて行われる仕組みとして、何百年もかけて知恵を集めて作られたものだ。だれが裁判員席にいるにせよ、良心的な裁判をさせるにはどうしたらいいか、というように問題がたてられ、議論検討されねばならない。つまり私達は国民参加の問題を制度論として頭の中で観念的抽象的に考えるのではなく、日本全体の社会的な動きも含めて、その中でいかにすれば司法が人権を守る良心的な裁判をすることができるようになるかがまずあり、その一環としての司法への国民参加の制度論を正しく具体的に位置づけるようにすべきです。この点を考えない国民参加論や単なる制度論は魂のない抽象的な観念的制度論であり、権力的な統治層にやすやすと逆用されるのは当然のことだと私は思います。
そもそも何故日弁連が、陪審制から裁判員制度という新制度をかんがえるにいたったか、その理由を私達は常に思いおこす必要があります。そこで最後に甲山事件で冤罪に苦しんだ元被告の山田悦子さんの話を引用しておわりたいと思います。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/197783/
【裁判員制度】(5)「無罪発見」こそ裁判員の使命 甲山事件元被告・山田悦子さん(57)
人を裁くということは、人の生死を決めること。そして裁判員の使命は「無罪発見」にあるということを忘れないでほしい。刑事裁判の鉄則は「無辜(むこ)の不処罰」(無実の人を罰しない)。これからは裁判官におまかせではなく、市民も責任を持って司法を構築していかなければならないという使命が課せられている。
冤罪(えんざい)事件は頻繁には起こらないが、人間の歴史の中で無実の人を罰し命を奪ってきた歴史がある。間違いのないように審理することは、実際に罪を犯した人に対しても大事だ。市民が判決に手を貸した被告人がまた社会に帰ってくる。被告人を人間として救う視点で、きちんと罰則を与えることが必要になる。
重大事件であればあるほど捜査は厳しい。逮捕された人の言うことを取調官は素直に聴いてはくれない。
甲山事件の容疑者となった私は、当日午後8時ごろに何をやっていたか1分1秒刻みで証明することを要求され、アリバイを主張しても否定された。「同僚はこう言っている」「毎日、有罪の証拠がどんどんあがってくる」と言われ、自分の記憶だけがおかしいと追い詰められていく。
プライドも睡眠も奪われて四面楚歌(そか)。「否認していたら刑罰が重くなるから素直に認めた方がいい」と言われ、逃げ場を失った。つぶれそうで身動きしたくて、やっていないのに自白してしまった。「やってないからやったことなど思い出せない」と、またすぐに翻したが…。
そのころ、接見に来た弁護士が「取調官は六法全書を見せて、殺人でも死刑にならないから自白するようにと言うよ」と言った。その夜、取調官が同じことを言ったことで完全に目が覚めた。
そんな取り調べの怖さは体験していないと分からない。この実態を裁判員になる市民に伝えるには時間が必要。冤罪事件であれば数日間の集中審理ではあまりに短い。裁判員制度は無実の被告人にとって厳しい法廷になるのではないか。
有名な言葉である「疑わしきは罰せず」の「疑わしき」は被告人のことと思っている人が案外多い。この言葉は「被告人は疑わしいけれど話さないから罰せない」という意味ではなく、「検察官(の証拠)が疑わしいと思ったら罰してはならない」という意味。裁判員には「検察官が出した証拠は正しいのか」という視点を持って臨んでほしい。
本来、市民が参加して無罪判決が出たら控訴できないという改革も必要だったと思う。検察官は無罪が出ると必ず控訴する。甲山事件では、無罪が確定したときには事件発生から25年がたっており、私は22歳から47歳になっていた。
裁判員制度は、残念ながら厳罰主義の流れの中の改革であり、「無辜の不処罰」を目指すための改革ではないと感じている。それでも市民が裁判に加わり、自分たちの力で正義や自由を実現するのは大事なこと。市民には、打ち震えている冤罪の被告人の擁護者になってほしいと願う。
◇
■甲山事件
昭和49年3月17日、兵庫県西宮市の障害児養護施設「甲山学園」で女子園児=当時(12)=が行方不明になり、2日後の19日には男子園児=同=も不明になった。同日夜、2人はトイレ浄化槽から水死体で発見され、保母だった山田悦子さんは4月、男子園児に対する殺人容疑で逮捕された。嫌疑不十分で不起訴となったが、検察審査会の不起訴不当の議決を経て53年2月、再び同容疑で逮捕された。1審は約7年の審理で無罪としたが、2審で破棄差し戻しに。被告側の上告を最高裁が棄却し、差し戻し1審で再び無罪、第2次控訴審でも無罪。平成11年10月、検察側の上訴権放棄手続きで無罪が確定した。
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