現代思想10月号より、裁判員制度を考える(4)ー「司法はポピュリズムの暴風にさらされている」
- 2008/11/29
- 02:38
(以下、現代思想10月号 『小田中聰樹 あるべき「司法への国民参加」とは』及び安田弁護士と森氏の対談を、私なりに要約)
この疑問だらけの裁判員制度に日弁連は積極的に賛成の立場をとってきました。日弁連は被告人にとって公正な裁判を求めてきたはずなのに、何故でしょうか。
7~80年代に裁判は大変権力寄りにになっていく傾向にあり、被疑者、被告人の人権保障という刑訴の理念がないがしろにされ、人権侵害や冤罪がおこった。そこで日弁連や有識者はこの現状をなんとかせねばならない、司法を改革していかなければと考えてきた。
ところが今回の司法改革はそういう流れとは別物で、90年代半ばに財界の要求として突如動き始めたものだった。規制緩和に伴い様々な紛争、軋轢が国民や企業の間におこるので、それを迅速に処理するというニーズに応えるべく司法改革が求められたのだった。
当時日弁連は、この流れが自分たちの司法改革要求の受け皿にもなるという情勢判断をして、この流れにのってしまった。
しかし、財界を中心とした司法改革は弁護士達が望んでいたものとは違った。
弁護士達は人権保障を強化し、憲法的な原則を具現化する司法改革を目指していたのだが、財界が要求したこの司法改革の主眼は、効率的に迅速に紛争に決着をつけて解決を図り、憲法的な原則を相対化し崩していこうとするものであった。これは、裁判における人権保障機能を充実強化することとは結びつかない、むしろ逆行するものであり、日弁連はじめ人権保障を強化する司法改革を目指す勢力はこれを分析し見抜くべきであった。
既存の司法を何とかしなくてはという問題意識が日弁連にもあり、また別の意味での問題意識が政財界にもあり、それがいわば同床異夢的に一つの流れに収斂してしまったのがこのような裁判員制度を産むことになってしまった。
本来であれば人権保障をチェックすべき裁判所がその機能を果たさず、人権侵害を容認し、刑事事件を処理していく。この惨状を打破するのに陪審に感心が高まったのは事実である。今回の司法改革はその動きを吸い上げる形をとった。
しかしその経過で残念なことに、陪審でも参審でもない裁判員というアイディアが突如出され、それがさしたる議論もないままたった五ヶ月後に制度化されてしまった。この裁判員制度には批判もあったが、それは「裁判員制度も司法への国民参加の一形態」という、裁判員制度の実態無視した、非常に大雑把でで抽象的観念的な議論にかき消されてしまった。突き詰めた議論もないまま拙速に立法されてしまったのだ。
行き先が同じかと舟に乗ったら、実は違っていました。呉越同舟にはもっと警戒しなくてはならなかったのですが、何かしらのチェンジをもたらすのにこれは逃せないチャンスとあせったのは、それほど刑事裁判の実態は酷く、絶望的だったからでしょう(今もですが)。
西野元裁判官も自著「裁判員制度の正体」の中で、推進派は陪審制や裁判員制こそが刑事裁判をよくするのだと宗教的熱心さで信じていた、ということを書いています。走り出したらとまらなかったのでしょう。
Ⅱ①公判前手続と裁判員制度
公判前整理手続とは、裁判が始まる前に裁判官、検察官、弁護人が密室に集まり争点と証拠の整理をすることによって裁判を迅速化する制度であり、裁判員制度と抱き合わせのような形で導入された。
この手続では、弁護人はその場で反論を展開しなくてはならないし、反証する証拠も明らかにしなくてはならない。
そして、ここで争点として三者が決めた結果を公判廷で動かすことは、やむを得ない理由がない限り許されない。つまり、公判が始まってから「こういう証拠もある」「こういう争点もある」と主張することが出来なくなったのだ。
これは被告人側にとって非常に問題がある制度だ。
検察側は捜査権限に基づいてたくさんの証拠を集めることができ、事件の全体を見通した上で起訴するのだが、弁護人には検察のような権力は何もない。単に起訴状と被告人の言い分があるだけであり検察に比べて圧倒的に不利な位置にいる。こういう時点で、公判で争う争点、証拠をあらかじめ確定するのは、手持ちの武器や資料がほとんどない弁護側は争点の設定を誤る危険が大きい。
後から新たに争点や証拠を発見してもそれを出すことを禁ずるというのは、弁護活動を大幅に制約するものなのだ。
そもそも弁護側がまだ事件の全体をつかめていない段階で、やったかやらなかったか、やらなかったならどんな証拠があるのかをみせろと要求するのは、手の内をみせろと言われているに等しく、黙秘権の侵害にあたりかねないし、無罪推定や、検察官が立証責任を全面的に負うといった刑事裁判の大原則をなし崩しにするものだ。
この公判前手続に裁判員は参加しない。参加するのは公判の段階からである。
この整理手続によって、裁判員には枝葉末節な部分を捨象して整理された争点と証拠が提示され、その範囲内での判断を迫るという事になるので、裁判が早くなるのである。
ところが、実はその捨象された枝葉末節にこそその人の人となりや事件を起こさざるを得なかった事情や今後の更正の可能性が見いだされるのであって、これがなくなると被告人は人としてでなく物として裁かれることになってしまう。
公判前手続により裁判は迅速化するわけですが、いったい何のため誰のための迅速化なのでしょうか。
本来迅速な裁判は被告人のためのものであり、憲法37条も迅速な裁判を受けるのは被告人の権利であることを明記しています。
ところが公判前手続で裁判を迅速化したのは被告人の利益のためでなく、裁判員を長く拘束するのは裁判員に申し訳ないという理由からでした。裁判員のために迅速化した結果、上記のように被告人に大幅な不利益を強いることになってしまったのです。
「この司法改革の主眼は、効率的に迅速に紛争に決着をつけて解決を図り、憲法的な原則を相対化し崩していこうとするものであった」ことが如実にあらわれています。
これでは裁判は被告人のためのものではなく、裁判員のためのものではないですか。何のために裁判員裁判にしたのでしょう??
また、現在刑事事件の弁護人はその8割方が国選弁護人です。国選弁護は報酬が極端に安いのが問題となっています。不十分な費用では裁判の準備にも支障をきたします。少ない費用と短い準備期間で弁護人は果たして多大な労力と責任に対応できるでしょうか。
Ⅱ②被害者参加制度と裁判員制度に続く。
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