コメント
命尽き果てるまで…
>君が代は明治以降の皇国史観、天皇制ファシズム、軍国主義により国民の人権を弾圧した大日本帝国のシンボルであったことは消しようがない歴史的事実です。
>国旗に頭を垂れる行為を強制すること自体、国民主権や民主主義や基本的人権の尊重といった概念に反するものだからです(アメリカの判例やギイ・モケの話を参照)
>更に日本では、現在国旗と法定されている日の丸は軍国主義や専制的な天皇制を象徴する旗であったという独自の事情が存在する事を加味してみましょう。
>日本の国旗国歌は自由と民主主義を激しく弾圧した時代を象徴するものなのに、公務員には拒否する権利が認められず、公務員以外の一般市民でも冷たい視線を送られます。
これが何を意味するか今一度考えてくださると嬉しく思います。
このエントリーを拝読させて頂き、あらためて、命尽き果てるまで、“君が代”なぞ何があっても歌わないことと、なにがあっても、例え権力側に強制されようが、“日の丸”に敬意を払う屈辱的な行為は断固拒否します。それがわたしの“矜持”・“信念”として心にあらためて刻印します。
>国旗に頭を垂れる行為を強制すること自体、国民主権や民主主義や基本的人権の尊重といった概念に反するものだからです(アメリカの判例やギイ・モケの話を参照)
>更に日本では、現在国旗と法定されている日の丸は軍国主義や専制的な天皇制を象徴する旗であったという独自の事情が存在する事を加味してみましょう。
>日本の国旗国歌は自由と民主主義を激しく弾圧した時代を象徴するものなのに、公務員には拒否する権利が認められず、公務員以外の一般市民でも冷たい視線を送られます。
これが何を意味するか今一度考えてくださると嬉しく思います。
このエントリーを拝読させて頂き、あらためて、命尽き果てるまで、“君が代”なぞ何があっても歌わないことと、なにがあっても、例え権力側に強制されようが、“日の丸”に敬意を払う屈辱的な行為は断固拒否します。それがわたしの“矜持”・“信念”として心にあらためて刻印します。
象徴、という言葉について
>日本の国旗国歌は自由と民主主義を激しく弾圧した時代を象徴するものなのに、
江戸時代以前からある日の丸に対して、たった10数年の戦争時代だけをことさら強調して日の丸は軍国主義の象徴だのというのは少し視野が狭い気がします。戦後に限定してもすでに60年以上平和憲法国家の象徴であるのに。
戦争は二度と起こしてはいけないやら風化させてはならないやら言い分は正しいのですが、日の丸の歴史はもっと長くて壮大なものです。その歴史の中で太平洋戦争は要素として最重要のものではないでしょう。江戸の南蛮貿易から次のワールドカップまで長い歴史の中の1ページです。
戦時中の日本の行いは自省する。子供たちに戦争で何があったのか、また民主主義とは何かについても知ってもらう。それは大事なことです。しかしそれと日の丸を無為に貶めることはまた別の話です。日の丸は立派に「自由と民主主義の象徴」になりうるし、今すでにそうであると私は思います。
あと、
>例えば革命で自由と民主主義を手に入れたチュニジアの民衆はみな嬉しそうに国旗を振ります。
革命、ジャスミン革命のことだと思いますが、青年の焼身自殺から始まったこの革命では暴動やデモによって両者ともに少なからず死傷者が出ましたよね。つまりチュニジア国旗は流血沙汰による「自由」を象徴しているわけですが、このチュニジアの例を肯定的に受け止めている方々は疑問はないのでしょうか。背景は全く異なりますが日本の戦時中もたくさんの方が死にました。戦争や戦闘で失われる命に数の多寡や立場の差なんて関係ありません。人殺しに綺麗も汚いもないのです。何が言いたいかというと、日本の先の戦争とジャスミン革命双方から漂う血生臭さに違いはないということです。片方はよくて他方はダメ、は何かおかしい。
長く書きましたが、私は別に起立の強制に対して意見を言うつもりではありません。そもそも国旗国歌に対して立て立たないなどというチンケな話題はふさわしくない、と思います。各自の自由でいいのです。
ただ、単純に日の丸と君が代が好きだ、という私のような人間がいることも理解してほしかっただけです。日の丸は100%悪の象徴であるかのような言いぐさが不愉快だったのでコメントさせていただきました。
江戸時代以前からある日の丸に対して、たった10数年の戦争時代だけをことさら強調して日の丸は軍国主義の象徴だのというのは少し視野が狭い気がします。戦後に限定してもすでに60年以上平和憲法国家の象徴であるのに。
戦争は二度と起こしてはいけないやら風化させてはならないやら言い分は正しいのですが、日の丸の歴史はもっと長くて壮大なものです。その歴史の中で太平洋戦争は要素として最重要のものではないでしょう。江戸の南蛮貿易から次のワールドカップまで長い歴史の中の1ページです。
戦時中の日本の行いは自省する。子供たちに戦争で何があったのか、また民主主義とは何かについても知ってもらう。それは大事なことです。しかしそれと日の丸を無為に貶めることはまた別の話です。日の丸は立派に「自由と民主主義の象徴」になりうるし、今すでにそうであると私は思います。
あと、
>例えば革命で自由と民主主義を手に入れたチュニジアの民衆はみな嬉しそうに国旗を振ります。
革命、ジャスミン革命のことだと思いますが、青年の焼身自殺から始まったこの革命では暴動やデモによって両者ともに少なからず死傷者が出ましたよね。つまりチュニジア国旗は流血沙汰による「自由」を象徴しているわけですが、このチュニジアの例を肯定的に受け止めている方々は疑問はないのでしょうか。背景は全く異なりますが日本の戦時中もたくさんの方が死にました。戦争や戦闘で失われる命に数の多寡や立場の差なんて関係ありません。人殺しに綺麗も汚いもないのです。何が言いたいかというと、日本の先の戦争とジャスミン革命双方から漂う血生臭さに違いはないということです。片方はよくて他方はダメ、は何かおかしい。
長く書きましたが、私は別に起立の強制に対して意見を言うつもりではありません。そもそも国旗国歌に対して立て立たないなどというチンケな話題はふさわしくない、と思います。各自の自由でいいのです。
ただ、単純に日の丸と君が代が好きだ、という私のような人間がいることも理解してほしかっただけです。日の丸は100%悪の象徴であるかのような言いぐさが不愉快だったのでコメントさせていただきました。
ガリクソンさんへ
>日の丸は立派に「自由と民主主義の象徴」になりうるし、
>今すでにそうであると私は思います。
私は先祖代々日本国籍を有する一国民ですけど、十数年前まではさほど日の丸に
嫌悪感を感じてはいませんでしたが、現在ははっきり日の丸が嫌いな旗になっています。
なぜかというと、昨今の日の丸君が代への拝礼、斉唱の強制と処罰化の嵐を前にして、
これはナショナリズムと強権への服従の手段と成り下がったという思いが強まるばかりです。
正確には成り下がったというよりも、戦前において日の丸、君が代はそういう使われ方を大いに
されてきた経緯があるわけでして、どうもこれが後戻りして本性を表してきたのだなと
考えています。日の丸、君が代が国歌、国旗とされたのは明治以降ですが、この時の日本の体制は
第日本帝国憲法下の外見的立憲主義にあったに過ぎないもので、民主主義と自由主義に対しては、
相当な制約が加えられていたのです。実質的な立憲主義は現行の日本国憲法によって
もたらされました。これによって、主権が国民にあるとされ、“国家権力の濫用を抑制し、国民の権利を自由を守るための最高法規”という立憲主義的意味における憲法をいただくことができたのです。
このように戦前と戦後では憲法という国の根幹をなす最高法規によって
体制が変わったわけですから、国家の象徴も変わってしかるべきだったと私は思いますね。
さて、あなたが日の丸を『自由と民主主義の象徴』だと考えているのならば、
尚更のこと、これに対する拝礼の強制と処罰など反対するべきですね。
こんなことをしている国など世界の民主主義と自由主義国家において存在していないことを
あなたはご存知ですか。
強制と処罰などした時点で、アンチ民主主義でありアンチ自由主義なのですから、
これを容認することは、益々、自由と民主主義の象徴から遠ざかることになりますよ。
自由と民主主義の象徴である日の丸への思いがあるのならば、
大いに強制大反対の論陣を張っていってください。
でないと、自家撞着に陥りますよ。
新右翼の重鎮であり、誰よりも日の丸君が代を愛していると自負している鈴木邦男による
以下のエッセイをよーくお読みください。
『 しかし、不思議だね。国旗・国歌が法制化された時「これは強制するものではありません」と政府や(当時の)文部省は言っていた。つまり、「日本の旗は日の丸ですよ。日本の歌は君が代ですよ」と確認するだけだ、と言っていた。しかし、法律を作ると、急にそれを拡大解釈しようとする人が出る。
「じゃあ、国旗・国歌にふさわしい扱いをしよう」 「じゃあ、公立の中学・高校では生徒に歌わせよう」となる。さらには、「全員で歌った方がいい」となる。全員が立ち上がり、全員が口を開けて歌う。そこに「統一美」を感じるんでしょうな。また、それが「愛国心」だと錯覚する。いかんですな。
さらに、「歌わない人間は困る」 「処分しろ」という発想になる。いやいや立っても「歌ってないじゃないか」と責める人がいる。「あら探し」が始まる。都内の高校で本当にあった話で、「実際に口を開けて歌っているかどうか」を写真に撮って歩いている人間がいるという。教育委員会や保守派の議員だ。やだね。法律ができるとこんな人間が出てくる。でも、写真を撮っている人間は少なくとも歌っていない。じゃあ、そいつが一番「君が代」を侮辱している「国賊」だよ。違いますかね。
さらに「口を開いて、歌っているフリだけしている人間がいる。だから、本当に声を出しているかどうかを調べよう」という人もいる。つまり、音声を計るわけだ。いやだね。よくこんなことを考えつくもんだ。
これじゃあ、君が代がかわいそうだ。ただ「強制」の道具にされているだけだ。左翼教師や「内心の自由」を持った教師を苛めるための道具にされている。「国歌」として大事にされていない。尊重されていない。まるで「拷問の道具」だよ。「踏み絵」だよ。
それに「何でもいいから歌え!」と言っているだけだ。いや「何でもいいから」なんて言っていない、と「強制派」の人は言うかもしれない。しかし、違う。「君が代」を今まで5000回は歌ってきた私が言うのだから間違いない。
・・・・・・・
ここで思った。よし、私は、これから教師になってやる。今から大学に入り直し、教職課程をとり、公立高校の教師になる。それで、入学式や卒業式の時、君が代で起立しない。当然、処分される。しかし、今まで5000回、君が代を歌ってきた「愛国者」である私を、誰が処分できるのか。そう言ってやりますよ。「じゃあ、あなたは何回君が代を歌いましたか?」と。20回ですか? 30回ですか?その程度で「君が代を愛していると言えるんですか」。20回しか歌わん人が、5000回歌った私を処分できるんですか? と。』
>今すでにそうであると私は思います。
私は先祖代々日本国籍を有する一国民ですけど、十数年前まではさほど日の丸に
嫌悪感を感じてはいませんでしたが、現在ははっきり日の丸が嫌いな旗になっています。
なぜかというと、昨今の日の丸君が代への拝礼、斉唱の強制と処罰化の嵐を前にして、
これはナショナリズムと強権への服従の手段と成り下がったという思いが強まるばかりです。
正確には成り下がったというよりも、戦前において日の丸、君が代はそういう使われ方を大いに
されてきた経緯があるわけでして、どうもこれが後戻りして本性を表してきたのだなと
考えています。日の丸、君が代が国歌、国旗とされたのは明治以降ですが、この時の日本の体制は
第日本帝国憲法下の外見的立憲主義にあったに過ぎないもので、民主主義と自由主義に対しては、
相当な制約が加えられていたのです。実質的な立憲主義は現行の日本国憲法によって
もたらされました。これによって、主権が国民にあるとされ、“国家権力の濫用を抑制し、国民の権利を自由を守るための最高法規”という立憲主義的意味における憲法をいただくことができたのです。
このように戦前と戦後では憲法という国の根幹をなす最高法規によって
体制が変わったわけですから、国家の象徴も変わってしかるべきだったと私は思いますね。
さて、あなたが日の丸を『自由と民主主義の象徴』だと考えているのならば、
尚更のこと、これに対する拝礼の強制と処罰など反対するべきですね。
こんなことをしている国など世界の民主主義と自由主義国家において存在していないことを
あなたはご存知ですか。
強制と処罰などした時点で、アンチ民主主義でありアンチ自由主義なのですから、
これを容認することは、益々、自由と民主主義の象徴から遠ざかることになりますよ。
自由と民主主義の象徴である日の丸への思いがあるのならば、
大いに強制大反対の論陣を張っていってください。
でないと、自家撞着に陥りますよ。
新右翼の重鎮であり、誰よりも日の丸君が代を愛していると自負している鈴木邦男による
以下のエッセイをよーくお読みください。
『 しかし、不思議だね。国旗・国歌が法制化された時「これは強制するものではありません」と政府や(当時の)文部省は言っていた。つまり、「日本の旗は日の丸ですよ。日本の歌は君が代ですよ」と確認するだけだ、と言っていた。しかし、法律を作ると、急にそれを拡大解釈しようとする人が出る。
「じゃあ、国旗・国歌にふさわしい扱いをしよう」 「じゃあ、公立の中学・高校では生徒に歌わせよう」となる。さらには、「全員で歌った方がいい」となる。全員が立ち上がり、全員が口を開けて歌う。そこに「統一美」を感じるんでしょうな。また、それが「愛国心」だと錯覚する。いかんですな。
さらに、「歌わない人間は困る」 「処分しろ」という発想になる。いやいや立っても「歌ってないじゃないか」と責める人がいる。「あら探し」が始まる。都内の高校で本当にあった話で、「実際に口を開けて歌っているかどうか」を写真に撮って歩いている人間がいるという。教育委員会や保守派の議員だ。やだね。法律ができるとこんな人間が出てくる。でも、写真を撮っている人間は少なくとも歌っていない。じゃあ、そいつが一番「君が代」を侮辱している「国賊」だよ。違いますかね。
さらに「口を開いて、歌っているフリだけしている人間がいる。だから、本当に声を出しているかどうかを調べよう」という人もいる。つまり、音声を計るわけだ。いやだね。よくこんなことを考えつくもんだ。
これじゃあ、君が代がかわいそうだ。ただ「強制」の道具にされているだけだ。左翼教師や「内心の自由」を持った教師を苛めるための道具にされている。「国歌」として大事にされていない。尊重されていない。まるで「拷問の道具」だよ。「踏み絵」だよ。
それに「何でもいいから歌え!」と言っているだけだ。いや「何でもいいから」なんて言っていない、と「強制派」の人は言うかもしれない。しかし、違う。「君が代」を今まで5000回は歌ってきた私が言うのだから間違いない。
・・・・・・・
ここで思った。よし、私は、これから教師になってやる。今から大学に入り直し、教職課程をとり、公立高校の教師になる。それで、入学式や卒業式の時、君が代で起立しない。当然、処分される。しかし、今まで5000回、君が代を歌ってきた「愛国者」である私を、誰が処分できるのか。そう言ってやりますよ。「じゃあ、あなたは何回君が代を歌いましたか?」と。20回ですか? 30回ですか?その程度で「君が代を愛していると言えるんですか」。20回しか歌わん人が、5000回歌った私を処分できるんですか? と。』
日の丸のもとでの、大量殺戮…
鬼畜日本軍閥は、天皇の詔勅と“日の丸”のもと、米国の最後通牒;ハルノートを足蹴にし、海軍山本五十六元帥の大反対を押し切り、鬼畜東條英機内閣総理大臣兼陸軍大臣が作った“戦陣訓”『生きて虜囚の辱めを受けず』なる狂気に満ちた軍国教育で洗脳し、無謀な侵略戦争に突入し、三百数十万人にも及ぶ、日本国民の尊い命を殺戮せしめました。それだけでは飽きたらず、アジア解放(大東亜共栄)などと手前勝手極まるdemagogを撒き散らし、アジア諸国を侵略し、略奪・強姦・村落の焼き討ち、大量殺戮などの野蛮極まる悪行を重ねたことが、歴然たる歴史の事実なんですね…。これら鬼畜日本軍閥の非人間的蛮行は風化させてはなりません。
そんな民衆の怨嗟に満ち溢れ、侵略戦争の象徴である“日の丸”に敬意を示せなどと、権力側が強制することに対し、わたしは腹の底から怒りが湧きおこる。
“日の丸”なんか、踏み千切り、燃やしてしまいたい!!!。
そんな民衆の怨嗟に満ち溢れ、侵略戦争の象徴である“日の丸”に敬意を示せなどと、権力側が強制することに対し、わたしは腹の底から怒りが湧きおこる。
“日の丸”なんか、踏み千切り、燃やしてしまいたい!!!。
まじめに参考になります
はじめましてと思います。
いろいろ読ませていただきました。
まじめに参考になりました。
橋下のツイッターを私は読んだことがないのですが
この下品な男を持ち上げるマスコミの訳は・・とか
国旗・国歌を強要するもとはとか
橋下の枕詞「税金ドロボー」
よく理解できました。
6月23日街頭で話してみます。
なるべくわかりやすく。
お礼まで。
いろいろ読ませていただきました。
まじめに参考になりました。
橋下のツイッターを私は読んだことがないのですが
この下品な男を持ち上げるマスコミの訳は・・とか
国旗・国歌を強要するもとはとか
橋下の枕詞「税金ドロボー」
よく理解できました。
6月23日街頭で話してみます。
なるべくわかりやすく。
お礼まで。
橋下市長、政治活動(=気に入らない?)職員は「バンバン懲戒免職に」
大阪市が7月議会への提案を目指す、職員の政治活動を禁じる条例案について、橋下徹市長は20日、政治活動を行った職員は原則として懲戒免職とする規定を盛り込むよう関係部局に指示したことを明らかにした。
重大な処分に直結する規定は、波紋を呼びそうだ。
市役所で報道陣の取材に答えた。当初は、国家公務員法の規定同様の懲役や罰金といった罰則を検討していたが、
政府が19日、「地方公務員法に違反する」との答弁書を閣議決定。
答弁書では「(罰則ではなく)地方公務員の地位から排除すれば足りる」との見解が示されていた。
橋下市長はこの点に触れ、「罰則は設けないが、閣議決定に忠実に従って、バンバン懲戒免職にする」と述べ、
政府見解を逆手に取って重い処分が可能な規定をつくる考えを示した。
(2012年6月21日 9時00分 読売新聞)
大阪市が7月議会への提案を目指す、職員の政治活動を禁じる条例案について、橋下徹市長は20日、政治活動を行った職員は原則として懲戒免職とする規定を盛り込むよう関係部局に指示したことを明らかにした。
重大な処分に直結する規定は、波紋を呼びそうだ。
市役所で報道陣の取材に答えた。当初は、国家公務員法の規定同様の懲役や罰金といった罰則を検討していたが、
政府が19日、「地方公務員法に違反する」との答弁書を閣議決定。
答弁書では「(罰則ではなく)地方公務員の地位から排除すれば足りる」との見解が示されていた。
橋下市長はこの点に触れ、「罰則は設けないが、閣議決定に忠実に従って、バンバン懲戒免職にする」と述べ、
政府見解を逆手に取って重い処分が可能な規定をつくる考えを示した。
(2012年6月21日 9時00分 読売新聞)
>フリスキーさん 鈴木邦男さんのエッセイ、面白いですね
>フリスキーさん
鈴木邦男さんのエッセイ、面白いですね。私も「君が代愛好者」として、鈴木さんにほぼ共感します。前にも、こちらのどこかに、2度ほど書かせていただいたことがあるのですが、私自身は「歌」としての「君が代」は昔から結構、好きだったんです。鈴木さんの5000回にはとうてい及びませんが、たぶん、800回くらいは歌っていると思います。(ただし、君が代に限らず、人前で歌を歌うのはあまり好きじゃないので、主に風呂の中とか、人気のない河原とかで歌っていました。(笑) )
でも、ここ十数年、特に、石原慎太郎が東京都知事になって(石原氏は都知事候補時代に「自分は君が代が嫌いだ」と公言していたにもかかわらず)「君が代不起立、不斉唱」による教員処分に力を入れ始めてからは歌えなくなってしまいました。歌おうとしても君が代を強制する人たちのことが忌まわしく頭に浮かんで来てしまうので、無心で歌うことが出来ないからです。
石原氏も橋下氏もそうだと思うのですが、「君が代斉唱を強制すべし」と叫んでいる人たちはは別に君が代を好きでもなんでもないんです。ただ自分が嫌いな相手を処罰するワナとして使いたいだけです。自分が愛しているものをそのようなワナに使いたい人などいるわけがありません。君が代を侮辱して貶めているのは歌わない人たちよりも彼らの方だと思います。(そう考えれば、自分は君が代が嫌いな石原氏が都下の先生方に強制できた理由もよくわかります)
人であれ歌であれ、「愛すること」を他人に強制することはできません。強制によってもたらされるのは単なる服従だけです。「愛国心」とは何の関係もありません。私ももし、東京や大阪の教師だったら、不起立、不斉唱を貫きたくなるかもしれません。
鈴木邦男さんのエッセイ、面白いですね。私も「君が代愛好者」として、鈴木さんにほぼ共感します。前にも、こちらのどこかに、2度ほど書かせていただいたことがあるのですが、私自身は「歌」としての「君が代」は昔から結構、好きだったんです。鈴木さんの5000回にはとうてい及びませんが、たぶん、800回くらいは歌っていると思います。(ただし、君が代に限らず、人前で歌を歌うのはあまり好きじゃないので、主に風呂の中とか、人気のない河原とかで歌っていました。(笑) )
でも、ここ十数年、特に、石原慎太郎が東京都知事になって(石原氏は都知事候補時代に「自分は君が代が嫌いだ」と公言していたにもかかわらず)「君が代不起立、不斉唱」による教員処分に力を入れ始めてからは歌えなくなってしまいました。歌おうとしても君が代を強制する人たちのことが忌まわしく頭に浮かんで来てしまうので、無心で歌うことが出来ないからです。
石原氏も橋下氏もそうだと思うのですが、「君が代斉唱を強制すべし」と叫んでいる人たちはは別に君が代を好きでもなんでもないんです。ただ自分が嫌いな相手を処罰するワナとして使いたいだけです。自分が愛しているものをそのようなワナに使いたい人などいるわけがありません。君が代を侮辱して貶めているのは歌わない人たちよりも彼らの方だと思います。(そう考えれば、自分は君が代が嫌いな石原氏が都下の先生方に強制できた理由もよくわかります)
人であれ歌であれ、「愛すること」を他人に強制することはできません。強制によってもたらされるのは単なる服従だけです。「愛国心」とは何の関係もありません。私ももし、東京や大阪の教師だったら、不起立、不斉唱を貫きたくなるかもしれません。
フリスキーさんへ
>戦前において日の丸、君が代はそういう使われ方を大いに
されてきた経緯があるわけでして、
どうやらあなたは日の丸と先の大戦を切り離して考えることができないようですね。その時点であなたと私は考え方が決定的に違います。あなたの思想を否定するつもりは全くありませんが、お互い分かり合えない部分でしょう。
それから、すでに申し上げましたが私は起立の強制に対して賛成しているわけではありません。しかし別段強固に批判することも無いです。この問題に対して、自分としてそこまで関心が持てなかったので。世界には礼拝を強制する国がないということにどれほどの意味がありますか。自由主義の世界には自前の軍隊を持つ国も核を保有する国も存在しますが、日本もそれらに倣うべきだということでしょうか。
それは置いといて、私は世界に日本ほど世界平和に貢献している国家は無いと思います。日本のODAの額、国連の平和活動への協力、自然災害を受けた国への支援、世界の経済危機への資金拠出、そして何より、WWⅡの後日本は一度も戦争をしていないこと。これらの事実を前にして、実際に有ったかどうかも分からんような、それもはるか昔の南京事件やら慰安婦問題やらなぞ何の価値もありません。
日本ほど平和の二文字が似合う国はないと思いますよ。その国の国旗が「自由と民主主義の象徴」だと言って何か問題がありますか。
>青い鳥さん
>“日の丸”なんか、踏み千切り、燃やしてしまいたい!!!。
ずいぶんと下品な表現ですね。まるで橋下氏です。
青い鳥さんは戦争に対して激しく熱い気持ちを持っておられるのでしょう。素晴らしいことだと思いますよ。あなたからすればお隣の太極旗など悪の権化に見えるのでしょう。なにせ未だに同じ民族の国と戦争状態で、国民に徴兵義務が課せられているきな臭い国家ですからね。かの国のベトナムに対する行為を思えば、煮て焼いて食っても飽き足らないほどあの旗を憎んでおられるはずです。
>戦前において日の丸、君が代はそういう使われ方を大いに
されてきた経緯があるわけでして、
どうやらあなたは日の丸と先の大戦を切り離して考えることができないようですね。その時点であなたと私は考え方が決定的に違います。あなたの思想を否定するつもりは全くありませんが、お互い分かり合えない部分でしょう。
それから、すでに申し上げましたが私は起立の強制に対して賛成しているわけではありません。しかし別段強固に批判することも無いです。この問題に対して、自分としてそこまで関心が持てなかったので。世界には礼拝を強制する国がないということにどれほどの意味がありますか。自由主義の世界には自前の軍隊を持つ国も核を保有する国も存在しますが、日本もそれらに倣うべきだということでしょうか。
それは置いといて、私は世界に日本ほど世界平和に貢献している国家は無いと思います。日本のODAの額、国連の平和活動への協力、自然災害を受けた国への支援、世界の経済危機への資金拠出、そして何より、WWⅡの後日本は一度も戦争をしていないこと。これらの事実を前にして、実際に有ったかどうかも分からんような、それもはるか昔の南京事件やら慰安婦問題やらなぞ何の価値もありません。
日本ほど平和の二文字が似合う国はないと思いますよ。その国の国旗が「自由と民主主義の象徴」だと言って何か問題がありますか。
>青い鳥さん
>“日の丸”なんか、踏み千切り、燃やしてしまいたい!!!。
ずいぶんと下品な表現ですね。まるで橋下氏です。
青い鳥さんは戦争に対して激しく熱い気持ちを持っておられるのでしょう。素晴らしいことだと思いますよ。あなたからすればお隣の太極旗など悪の権化に見えるのでしょう。なにせ未だに同じ民族の国と戦争状態で、国民に徴兵義務が課せられているきな臭い国家ですからね。かの国のベトナムに対する行為を思えば、煮て焼いて食っても飽き足らないほどあの旗を憎んでおられるはずです。
>ガリクソンさん
>江戸時代以前からある日の丸に対して
>日の丸の歴史はもっと長くて壮大なものです。
「日の丸」が我が国を表わすために公式に用いられるようになったのは,日本船を外国船と識別する必要が生じた幕末期以降のことです。
ご自分の想像と歴史的事実を混同されるようでは、その後何を言っても説得力がないと思いますよ。
>どうやらあなたは日の丸と先の大戦を切り離して考えることができないようですね
あなたはハーケンクロイツとナチスを切り離して考えることができるようですね
>日の丸の歴史はもっと長くて壮大なものです。
「日の丸」が我が国を表わすために公式に用いられるようになったのは,日本船を外国船と識別する必要が生じた幕末期以降のことです。
ご自分の想像と歴史的事実を混同されるようでは、その後何を言っても説得力がないと思いますよ。
>どうやらあなたは日の丸と先の大戦を切り離して考えることができないようですね
あなたはハーケンクロイツとナチスを切り離して考えることができるようですね
ガリクソンさんへ
ガリクソンさんへ
>自由主義の世界には自前の軍隊を持つ国も核を保有する国も存在しますが、
>日本もそれらに倣うべきだということでしょうか。
あのね、
民主主義とは、治者と被治者との自同性をもたらす原理であり、自由主義とは、
個人の人権を国家に対して保障させるということです。
ですから、軍隊を持つことはただちに矛盾するものではありません。
別の話です。
少なくとも大義名分においては国民を守るために軍隊があるとされているわけでしょう。
(ただし、軍のあり方によってはこれらを侵害することになるわけですが)
>どうやらあなたは日の丸と先の大戦を切り離して考えることができないようですね。
>その時点であなたと私は考え方が決定的に違います
どうして、あなたは歴史的事実から目を背けるの?
日の丸、君が代、宮城遥拝、御真影奉戴が強制され、個人の人権が大きな侵害を
受けたことは歴史上明らかです。
ちなみにミッション系の私立学校では、戦前においてこれらの強制から信教の自由、
教育の自由が奪われ、敵性宗教を奉じているとして弾圧され、国家神道を押し付けられ、
軍国主義への協力を余儀なくされた経緯を持っています。
全体主義、軍国主義への同調を公権力によって強制するツールとして日の丸、君が代、イデオロギーとしての
国家神道が使われたことは歴史的事実ですから、ここから目をつぶり、臭いものには蓋をして、
日の丸君が代を自由主義の象徴であるなんて考えるのは愚鈍にして滑稽です。
言葉は悪いですが、馬鹿ですよ。
愛国心が大事でも、人を愛するのと一緒で盲目の愛に陥るのは愚かであって、
闇雲に溺愛するのは、返って相手のためにならないでしょう。
相手の長所短所を踏まえ、人は時に間違いを犯すものであるという大前提に立って、間違いを修正して
よりよくなるよう愛を与えるのがまっとうな愛でしょうに。
日本は素晴らしいんだ、すげーんだ、正しいんだ、これだけであなたは
本当に国を愛していることになるの?
違うでしょう。
勉強でもスポーツでも仕事でもなんでもそうだけど、自省しなくなった時点で、
成長は止まりますでしょう。
それは人についても、自国についても、他国についてもなんでもそうです。
事実は事実としてきちんと見ていきましょう。
それが理性的な愛国心のあり方です。
盲信的な愛国心ではカルト信者と一緒です。
民主主義と自由主義の象徴は、日の丸、君が代ではありません。
もし、本当にそれらの象徴であるのならば、どうして強制するの?処罰するの?
自由主義とはそれをやってはいけないのです。
やった時点でアンチ自由主義なんです。
だから、自由主義国家はどこもそんなことをしていないのです。
それが世界の常識なんです。
この段階で、既に、日の丸君が代はアンチ自由主義の象徴にほかならなくなっているのです。
それに、君が代の歌詞の意味はどうみても民主主義の象徴とはなり得ません。
日の丸、君が代、教育勅語、御真影、国民精神総動員運動などなど、これらは全体主義と軍国主義のための
ツールとして機能していた時代が長くあったのです。そのためにどれほどの血が流されたと思ってるの?
>日本ほど平和の二文字が似合う国はないと思いますよ。
>その国の国旗が「自由と民主主義の象徴」だと言って何か問題がありますか。
違う違う。
日本において、民主主義と自由主義の象徴とは何かと問われれば、
それは日本国憲法でしょうね。
それでもなお、あなたが日の丸君が代を自由主義の象徴であると考えたいのならば、
あなたは強制化に反対しない限り、筋が通りませんよ。
このことがわからないとするならば、
あなたは自由主義の意味を何も分かっていないということになります。
>自由主義の世界には自前の軍隊を持つ国も核を保有する国も存在しますが、
>日本もそれらに倣うべきだということでしょうか。
あのね、
民主主義とは、治者と被治者との自同性をもたらす原理であり、自由主義とは、
個人の人権を国家に対して保障させるということです。
ですから、軍隊を持つことはただちに矛盾するものではありません。
別の話です。
少なくとも大義名分においては国民を守るために軍隊があるとされているわけでしょう。
(ただし、軍のあり方によってはこれらを侵害することになるわけですが)
>どうやらあなたは日の丸と先の大戦を切り離して考えることができないようですね。
>その時点であなたと私は考え方が決定的に違います
どうして、あなたは歴史的事実から目を背けるの?
日の丸、君が代、宮城遥拝、御真影奉戴が強制され、個人の人権が大きな侵害を
受けたことは歴史上明らかです。
ちなみにミッション系の私立学校では、戦前においてこれらの強制から信教の自由、
教育の自由が奪われ、敵性宗教を奉じているとして弾圧され、国家神道を押し付けられ、
軍国主義への協力を余儀なくされた経緯を持っています。
全体主義、軍国主義への同調を公権力によって強制するツールとして日の丸、君が代、イデオロギーとしての
国家神道が使われたことは歴史的事実ですから、ここから目をつぶり、臭いものには蓋をして、
日の丸君が代を自由主義の象徴であるなんて考えるのは愚鈍にして滑稽です。
言葉は悪いですが、馬鹿ですよ。
愛国心が大事でも、人を愛するのと一緒で盲目の愛に陥るのは愚かであって、
闇雲に溺愛するのは、返って相手のためにならないでしょう。
相手の長所短所を踏まえ、人は時に間違いを犯すものであるという大前提に立って、間違いを修正して
よりよくなるよう愛を与えるのがまっとうな愛でしょうに。
日本は素晴らしいんだ、すげーんだ、正しいんだ、これだけであなたは
本当に国を愛していることになるの?
違うでしょう。
勉強でもスポーツでも仕事でもなんでもそうだけど、自省しなくなった時点で、
成長は止まりますでしょう。
それは人についても、自国についても、他国についてもなんでもそうです。
事実は事実としてきちんと見ていきましょう。
それが理性的な愛国心のあり方です。
盲信的な愛国心ではカルト信者と一緒です。
民主主義と自由主義の象徴は、日の丸、君が代ではありません。
もし、本当にそれらの象徴であるのならば、どうして強制するの?処罰するの?
自由主義とはそれをやってはいけないのです。
やった時点でアンチ自由主義なんです。
だから、自由主義国家はどこもそんなことをしていないのです。
それが世界の常識なんです。
この段階で、既に、日の丸君が代はアンチ自由主義の象徴にほかならなくなっているのです。
それに、君が代の歌詞の意味はどうみても民主主義の象徴とはなり得ません。
日の丸、君が代、教育勅語、御真影、国民精神総動員運動などなど、これらは全体主義と軍国主義のための
ツールとして機能していた時代が長くあったのです。そのためにどれほどの血が流されたと思ってるの?
>日本ほど平和の二文字が似合う国はないと思いますよ。
>その国の国旗が「自由と民主主義の象徴」だと言って何か問題がありますか。
違う違う。
日本において、民主主義と自由主義の象徴とは何かと問われれば、
それは日本国憲法でしょうね。
それでもなお、あなたが日の丸君が代を自由主義の象徴であると考えたいのならば、
あなたは強制化に反対しない限り、筋が通りませんよ。
このことがわからないとするならば、
あなたは自由主義の意味を何も分かっていないということになります。
どうしてガリクソンさんはこの論理矛盾がわからないのかな?
>民主主義と自由主義の象徴は、日の丸、君が代ではありません。
もし、本当にそれらの象徴であるのならば、どうして強制するの?処罰するの?
自由主義とはそれをやってはいけないのです。
やった時点でアンチ自由主義なんです。
このフリスキーさんのコメントそのものを私はこのエントリ-で既に書いているのですが、ガリクソンさんはもしかしてエントリ-を読まずに書き込みされたんですか?それとも読んでも理解できなかったのですか?
もし、本当にそれらの象徴であるのならば、どうして強制するの?処罰するの?
自由主義とはそれをやってはいけないのです。
やった時点でアンチ自由主義なんです。
このフリスキーさんのコメントそのものを私はこのエントリ-で既に書いているのですが、ガリクソンさんはもしかしてエントリ-を読まずに書き込みされたんですか?それとも読んでも理解できなかったのですか?
ガリクソンさんへの追伸
日の丸について、ガリクソンさんが、これは“国の象徴である”というのならば
まだ話はわかります。しかし、“自由主義の象徴”と言った場合、話は違ってくるのです。
これは、既に書いてきたとおりなので読み返して頂きたいのですが、
付け加えるに、
米国では、国旗つまり星条旗を損壊する行為を罰する法律を議会で成立させました。
しかし、連邦最高裁が違憲判決を下し、これを無効にしました。
その判決理由の中に、肝となる一節があります。
『我々は国旗への冒涜行為を罰することによって、国旗を聖化するものではない。これを罰することは、この大切な象徴が表すところの自由を損なうことになる』
つまりね、
星条旗を冒涜する行為を罰してしまうと、そのことによって、この旗が象徴する自由が損なわれてしまう。
つまり、“自由の象徴”足り得なくなってしまう。だからこそ、これを罰するべきではないと米国の司法は
結論づけたのです。
日本においては冒涜どころか、拝礼の強制の次元の話をしているのですから、
日の丸を“国の象徴”のみならず“自由主義の象徴”とするからには、
徹底した強制の反対をしない限り、ガリクソンさんの論理は成り立たないのです。
まだ話はわかります。しかし、“自由主義の象徴”と言った場合、話は違ってくるのです。
これは、既に書いてきたとおりなので読み返して頂きたいのですが、
付け加えるに、
米国では、国旗つまり星条旗を損壊する行為を罰する法律を議会で成立させました。
しかし、連邦最高裁が違憲判決を下し、これを無効にしました。
その判決理由の中に、肝となる一節があります。
『我々は国旗への冒涜行為を罰することによって、国旗を聖化するものではない。これを罰することは、この大切な象徴が表すところの自由を損なうことになる』
つまりね、
星条旗を冒涜する行為を罰してしまうと、そのことによって、この旗が象徴する自由が損なわれてしまう。
つまり、“自由の象徴”足り得なくなってしまう。だからこそ、これを罰するべきではないと米国の司法は
結論づけたのです。
日本においては冒涜どころか、拝礼の強制の次元の話をしているのですから、
日の丸を“国の象徴”のみならず“自由主義の象徴”とするからには、
徹底した強制の反対をしない限り、ガリクソンさんの論理は成り立たないのです。
「君が代って歌は嫌いなんだ。一種の滅私奉公みたいな内容だ」
そういえば石原慎太郎は都知事になる少し前に「日の丸は好きだけれど、君が代って歌は嫌いなんだ、個人的には。歌詞だってあれは一種の滅私奉公みたいな内容だ。新しい国歌を作ったらいいじゃないか。好きな方、歌いやいいんだよ」と言ったらしいんです。つまり、「自分は滅私奉公なんかするのはまっぴら御免だけど、他人には大いにさせたいぜ」ってことなんでしょうね。で、何に滅私奉公させるのかと言えば、「自分や自分の気に入った人たちが好きなようにできるこの社会やこの国」にですね、きっと。君が代を強制したい人って、みんなこんな感じがします。
>ガリクソンさん…
>>“日の丸”なんか、踏み千切り、燃やしてしまいたい!!!。
ずいぶんと下品な表現ですね。まるで橋下氏です。
内心を記したまでであり、あなたにとやかく言われる筋合いはない!!!。
橋下…?。あんな糞馬鹿野郎と一緒にするとは、失礼千万!!!。わたしに対する名誉毀損です。 謝罪を強く要求する!!!。
ずいぶんと下品な表現ですね。まるで橋下氏です。
内心を記したまでであり、あなたにとやかく言われる筋合いはない!!!。
橋下…?。あんな糞馬鹿野郎と一緒にするとは、失礼千万!!!。わたしに対する名誉毀損です。 謝罪を強く要求する!!!。
>ガリクソンさん
赤い丸を中央に描いた長方形の白い布地の上に足を乗せて地面に強く押し付けた後に、その布地の繊維を乱暴かつ不規則に裁断して細かく分解して、さらに、小片に分解されたその布地で燃焼現象を開始させて酸素と化合させることによってその布地をすべて炭化物に変換したいと、その布地を他人を支配する道具として用いる者たちへの激しい抗議とともに私は望みます。
ガリクソンなる愚か者へ
私からも一言言わせてもらいましょう。
「愛国心は悪党の最後の隠れ家である」。これはサミュエル・ジョンソンの有名な言葉です。私は日の丸や君が代を肯定はしていますが押し付けるつもりはありません。君のような押し付けがましいヘイトスピーチに嫌悪感すら覚えます。
ここにいる読者全員に直ちに誠実なる謝罪を要求します。また、日の丸や君が代は第二次世界大戦以前に韓国にとってはトラウマのシンボルだったと言う事実をなんと思うのですかな?その事実を認めず青い鳥さんを誹謗中傷するとは言語道断です。青い鳥さんでなくても激怒しますよ。
あなたにはインターネットをやる資格がありません。インターネットからの卒業を勧告しておきます。それが嫌なら実名で謝罪しなさい。それぐらいの覚悟でここに書き込んだのでしょうね?
「愛国心は悪党の最後の隠れ家である」。これはサミュエル・ジョンソンの有名な言葉です。私は日の丸や君が代を肯定はしていますが押し付けるつもりはありません。君のような押し付けがましいヘイトスピーチに嫌悪感すら覚えます。
ここにいる読者全員に直ちに誠実なる謝罪を要求します。また、日の丸や君が代は第二次世界大戦以前に韓国にとってはトラウマのシンボルだったと言う事実をなんと思うのですかな?その事実を認めず青い鳥さんを誹謗中傷するとは言語道断です。青い鳥さんでなくても激怒しますよ。
あなたにはインターネットをやる資格がありません。インターネットからの卒業を勧告しておきます。それが嫌なら実名で謝罪しなさい。それぐらいの覚悟でここに書き込んだのでしょうね?
> ガリクソンさん
蛇足かもしれませんが、わたしも一言。
> 江戸時代以前からある日の丸に対して、たった10数年の戦争時代だけをことさら強調して日の丸は軍国主義の象徴だのというのは少し視野が狭い気がします。
たった10数年とおっしゃいますが、大政奉還と明治政府成立(1868年)以降、1945年の敗戦までのおよそ80年間の間に、日の丸の社会的な意味はそれこそずいぶん変質したと思いますよ。少なくとも欽定憲法下の天皇主権の社会であったこの間、日の丸に拝礼しない人はやはり社会的に不利な扱いを受けていたわけで、これを自由主義の象徴と言うのはいささか無理があるように思います。
で、仮にその「10数年」だけがいけなかったのだとしても、その旗の下戦われたアジア・太平洋戦争では全体でおよそ2000万人が亡くなったと言われています。
期間の長短が問題なのではないと思います。その旗が一体どのように用いられてきたのか、歴史的な事実を知るべきでしょう。この失われた命を思えば、この「たった10数年」を日の丸の歴史から切り離したり無視したり軽んじたりするのは倫理的とは言えませんし、自由主義にも悖るでしょう。
日の丸を自由主義の象徴としたいのであればその「たった10数年」こそ、直視して自覚して忘れないでいるべきなのではないでしょうか。そしてあの戦争を正当化するような言説、かつての敵国や植民地国を軽んじ、その国の人たちを差別するような言説、そして他国の暴虐をひきあいにして自国の免責を図るような言説を、この日本の社会が積極的に批判していく事ができなければ、いくら「日の丸は自由主義の象徴」と日本人が主張しても、説得力がないでしょう。
今現在の日本社会は、そうした言説に対して非常に”寛容”です。残念ながら日の丸にはいまだ「自由主義の象徴」たりえる資格がなように、わたしには思えます。
一応申し上げておきますが、わたしは日の丸はデザインとしては優れていると思いますよ。ただ、上記のような理由から、だからと言って無条件で掲げ仰ぐことはできませんね。
蛇足かもしれませんが、わたしも一言。
> 江戸時代以前からある日の丸に対して、たった10数年の戦争時代だけをことさら強調して日の丸は軍国主義の象徴だのというのは少し視野が狭い気がします。
たった10数年とおっしゃいますが、大政奉還と明治政府成立(1868年)以降、1945年の敗戦までのおよそ80年間の間に、日の丸の社会的な意味はそれこそずいぶん変質したと思いますよ。少なくとも欽定憲法下の天皇主権の社会であったこの間、日の丸に拝礼しない人はやはり社会的に不利な扱いを受けていたわけで、これを自由主義の象徴と言うのはいささか無理があるように思います。
で、仮にその「10数年」だけがいけなかったのだとしても、その旗の下戦われたアジア・太平洋戦争では全体でおよそ2000万人が亡くなったと言われています。
期間の長短が問題なのではないと思います。その旗が一体どのように用いられてきたのか、歴史的な事実を知るべきでしょう。この失われた命を思えば、この「たった10数年」を日の丸の歴史から切り離したり無視したり軽んじたりするのは倫理的とは言えませんし、自由主義にも悖るでしょう。
日の丸を自由主義の象徴としたいのであればその「たった10数年」こそ、直視して自覚して忘れないでいるべきなのではないでしょうか。そしてあの戦争を正当化するような言説、かつての敵国や植民地国を軽んじ、その国の人たちを差別するような言説、そして他国の暴虐をひきあいにして自国の免責を図るような言説を、この日本の社会が積極的に批判していく事ができなければ、いくら「日の丸は自由主義の象徴」と日本人が主張しても、説得力がないでしょう。
今現在の日本社会は、そうした言説に対して非常に”寛容”です。残念ながら日の丸にはいまだ「自由主義の象徴」たりえる資格がなように、わたしには思えます。
一応申し上げておきますが、わたしは日の丸はデザインとしては優れていると思いますよ。ただ、上記のような理由から、だからと言って無条件で掲げ仰ぐことはできませんね。
>村野瀬玲奈さん… >小野 哲さん…
>村野瀬玲奈さん…
>…燃焼現象を開始させて酸素と化合させることによってその布地をすべて炭化物に変換したいと、その布地を他人を支配する道具として用いる者たちへの激しい抗議とともに私は望みます。
流石は総裁…! 科学的、且つ、流麗で気品漂う表現…、勉強になります。^^
>小野 哲さん…
>日の丸や君が代は第二次世界大戦以前に韓国にとってはトラウマのシンボルだったと言う事実をなんと思うのですかな?
わたしは、観測霊さんと同じく、日の丸のデザインは素敵だとは思うのですが、日の丸の下、旧日本軍閥が、アジア諸国で残虐の限りを尽くした蛮行の数々に思いを至すとき、どうしても拒絶反応が起きてしまいます。当然これは、全き内心に属する事柄ですので、権力側がわたしの内心に土足で踏み入ることが、どうしても許すことが、できないのです。いつも援護射撃、感謝します。m(__)m
>…燃焼現象を開始させて酸素と化合させることによってその布地をすべて炭化物に変換したいと、その布地を他人を支配する道具として用いる者たちへの激しい抗議とともに私は望みます。
流石は総裁…! 科学的、且つ、流麗で気品漂う表現…、勉強になります。^^
>小野 哲さん…
>日の丸や君が代は第二次世界大戦以前に韓国にとってはトラウマのシンボルだったと言う事実をなんと思うのですかな?
わたしは、観測霊さんと同じく、日の丸のデザインは素敵だとは思うのですが、日の丸の下、旧日本軍閥が、アジア諸国で残虐の限りを尽くした蛮行の数々に思いを至すとき、どうしても拒絶反応が起きてしまいます。当然これは、全き内心に属する事柄ですので、権力側がわたしの内心に土足で踏み入ることが、どうしても許すことが、できないのです。いつも援護射撃、感謝します。m(__)m
Re: 「君が代って歌は嫌いなんだ。一種の滅私奉公みたいな内容だ」>風鈴草さん
さすが東のバカ殿、行ってることとやってることが矛盾しまくってますねw
>ガリクソン様
本題とはやや逸れますが、まともな歴史学者で南京事件を
「実際に有ったかどうかも分からん」と言っている人は
おそらく世界中に一人もいないと思います。
そう叫んでいるのは日本の政治家やマンガ家や産経新聞や、
ネットの伝聞を鵜呑みにする素人だけです。
南京事件はただ「向こうがそう言うならそうなんだろう」と
中国側の言い分を丸呑みにしたわけではなく、
日本政府・日本軍・第三国の多くの史料を精査した結果として、
思想の左右などとは無関係に、史実であるというのが定説となっています。
犠牲者数の推定には幅があっても、事件の存在自体を否定する人はいないし、
数が問題の本質ではないこともコンセンサスとなっています。
本当に「実際に有ったかどうかも分からん」とお思いなら、
あなたの情報源にはかなり偏りがあると思わざるを得ません。
「実際に有ったかどうかも分からん」と言っている人は
おそらく世界中に一人もいないと思います。
そう叫んでいるのは日本の政治家やマンガ家や産経新聞や、
ネットの伝聞を鵜呑みにする素人だけです。
南京事件はただ「向こうがそう言うならそうなんだろう」と
中国側の言い分を丸呑みにしたわけではなく、
日本政府・日本軍・第三国の多くの史料を精査した結果として、
思想の左右などとは無関係に、史実であるというのが定説となっています。
犠牲者数の推定には幅があっても、事件の存在自体を否定する人はいないし、
数が問題の本質ではないこともコンセンサスとなっています。
本当に「実際に有ったかどうかも分からん」とお思いなら、
あなたの情報源にはかなり偏りがあると思わざるを得ません。
また論点のズレた質問になってしまいますが・・
こちらに書き込むのは3度目です。
みなさんほど勉強していず、つたない質問で申し訳ないですがよろしくお願いします。
皆さんがここで書かれているように、日の丸が戦争時にどのような利用のされ方をしてきたか、またアジア諸国の日の丸に対する感情も理解しているつもりでおります。
日の丸、君が代の強制にも断固反対です。
ただこの問題を考えるときにいつも思うのは日の丸に変わる国旗が成立できうるのだろうかということです。
国民投票で日の丸か新デザインの旗のいずれかを決めるとなったらおそらく現行の日の丸が多数を取ると思います(私の予想ですが)。また新デザインのものだけで(日の丸採択をなしにするために)決められたとしてもそれは新たな強制になるのではないでしょうか。
そうしたなかで出る結論としては君が代・日の丸はやらないということになるのでしょうが(国内ではこれでもいいとは
思います)でもこれだとオリンピックや国同士の集まりでは今の現状ではなりたたないでしょう。
そうすると私としては今の日の丸を国内の方、アジア諸国の人たちに過去の過ちを認めそれでも日の丸を掲揚できるように説得していくしかないのではと考えてしまいます。
むろんこちらに書かれている方々は許容などぜったい無理だという考えもわかります。でもそれ以上に新国歌、国旗の成立も私としては現実的でないと思ってしまうのです。
秋原さんのたてた命題からまた論点がずれた質問になってしまい申しわけないのですが、私のような考えがみなさんはどう思ってらっしゃるのかお聞かせ願えればみなさんのご意見もより理解できる気がしますのでよろしくお願いします。
PS
秋原さん 秋原さんに以前教えていただいたドキュメンタリー「光と影」の映画版「死刑弁護人」が今月末から上映というのを週刊金曜日で読みました。「光と影」は見ていないので今回見てまた死刑問題について考えたいと思います。
みなさんほど勉強していず、つたない質問で申し訳ないですがよろしくお願いします。
皆さんがここで書かれているように、日の丸が戦争時にどのような利用のされ方をしてきたか、またアジア諸国の日の丸に対する感情も理解しているつもりでおります。
日の丸、君が代の強制にも断固反対です。
ただこの問題を考えるときにいつも思うのは日の丸に変わる国旗が成立できうるのだろうかということです。
国民投票で日の丸か新デザインの旗のいずれかを決めるとなったらおそらく現行の日の丸が多数を取ると思います(私の予想ですが)。また新デザインのものだけで(日の丸採択をなしにするために)決められたとしてもそれは新たな強制になるのではないでしょうか。
そうしたなかで出る結論としては君が代・日の丸はやらないということになるのでしょうが(国内ではこれでもいいとは
思います)でもこれだとオリンピックや国同士の集まりでは今の現状ではなりたたないでしょう。
そうすると私としては今の日の丸を国内の方、アジア諸国の人たちに過去の過ちを認めそれでも日の丸を掲揚できるように説得していくしかないのではと考えてしまいます。
むろんこちらに書かれている方々は許容などぜったい無理だという考えもわかります。でもそれ以上に新国歌、国旗の成立も私としては現実的でないと思ってしまうのです。
秋原さんのたてた命題からまた論点がずれた質問になってしまい申しわけないのですが、私のような考えがみなさんはどう思ってらっしゃるのかお聞かせ願えればみなさんのご意見もより理解できる気がしますのでよろしくお願いします。
PS
秋原さん 秋原さんに以前教えていただいたドキュメンタリー「光と影」の映画版「死刑弁護人」が今月末から上映というのを週刊金曜日で読みました。「光と影」は見ていないので今回見てまた死刑問題について考えたいと思います。
> ビルさん
はじめまして。わたしも不勉強な身で僭越ですが、わたしの思うところを書かせていただきます。最初に申し上げておきますが、わたしは国旗や国歌というものに基本的にあまり思い入れや感慨を抱かない人間ですので、そこのところは割り引いてお読みください。
> 日の丸に変わる国旗が成立できうるのだろうかということです。
わたしも多分難しいと思います。繰り返しになりますが、日の丸はデザイン的にはシンプルでよくできている部類のものだと思います。これに代わるものとなると、どういうものがいいのかわたしには見当もつきません(笑)
ただ、だからといってこれをわだかまりなく掲げ仰ぐ事ができないのも先述したとおりです。
極端な話、わたしは「国旗・国歌は必要なのか?」とも考えます。確かに国際大会での表彰式や船舶の国籍確認などで困った事になるかもしれませんが、逆に言えばそれだけの事です。白い布地に「日本」とか「NIHON」とか書いておけば、要は日本のものだとわかるので、実務的なところで問題はほとんど生じないでしょう。
国歌については、「わが国に国歌はありません」で済ませればいいことです。
あとは掲げ、歌う側の心情的な問題です。やはり寂しいということであれば、国旗を使えばいいし、歌が歌いたければ君が代でも365歩のマーチでも歌えばいいと思いますが、それは喫緊に議論する課題でもありません。
そもそも論になりますが、問題なのは「国旗への拝礼」や「国家の斉唱」を強要する事です。ですからたとえ新しい国旗・国歌を制定したとしても、それが強制され、従わない人に処罰が加えられるような事があれば、わたしはそれに反対します。
大切なのは旗や歌ではなく、個人の内面の自由、尊厳をいかに守るか、という事です。
ですから「どんな国旗や国歌なら満足なのか?」というしばしば強制賛成派から投げかけられる問いは、そもそも強制に反対している人たちが何を問題にしているのか理解できていない、あるいは理解していながら敢えて議論の本質を誤魔化す問いなのです。
国際大会の折、日の丸が掲げられ、君が代が流れたとしても、それに対する拝礼や斉唱を強制しなければ、実のところそれで済む話です。
日の丸君が代が日本の国旗国歌としてふさわしくないという考えはあって当然です。それは歴史をかんがみても、また個人の思想信条の自由からも当然の事でしょう。そしてその考えが多くの人に受け入れられるようになれば、その時は議論して新しい国旗と国歌を定めればいいのです。
ただ繰り返しになりますが、どんな国旗や国歌でもそれに対する拝礼や斉唱を強制してはいけません。また逆に「掲げない事」「拝礼しない事」「歌わない事」を強制するのもいけません。それは民主主義の精神(基本的人権の尊重)に悖る事だからです。
もちろん日本という国が、過去の戦争を正当化したり、あるいはその加害責任を相対化して免責するような言説ときっぱりと決別し、国として謝罪を明確にすれば、時間はかかるでしょうが日の丸も、ガリクソンさんの言うように自由主義の象徴として受け入れられていくかもしれません。
君が代はどうかな…。あれは歌詞がとても民主的とは思えませんので。
ただ、そうなったとしても(しつこいようですが)それを国民であれ誰であれ、強制する事が許されるわけではありません。そしてそれは過去の戦争や国家的な暴力に対して日本が被害にあった世界の国々と、そして人々に真摯に謝罪し、その謝罪を裏切らない事で得られる付随的な結果でしかありません。日の丸を認めてもらうために、謝罪をするのだとしたら、それはその謝罪の意味を完全に取り違えた行為になるでしょう。
結論としては、新しい国旗や国歌が必要かどうかも含めて慌てて決めなければいけないような事ではありません。それよりも今現在起きている処罰を伴う強制をいかにやめさせていくかという事こそが大事だと考えます。
仰ぎたくない旗を仰がされる、歌いたくない歌を歌わされる。そういった個人の自由を無視した不法が現在起きていて、それを解決するために「誰もがわだかまりなく仰ぎ歌うことができる国旗国歌」を制定する、というのはひとつの考え方ではありますが、ビルさんも仰ったようにそれはあまりに現実的ではありませんよね。
当たり前の事ですが人間が十人十色であるのですから、どんな旗や歌でも、”誰もがわだかまりなく”掲げたり歌ったりする事は、多分不可能でしょう。音痴でそれを自覚し恥じている人間にとっては公の場で下手な歌を歌わされる事自体が暴力と言えます(笑)が、それは置いといて。
それよりも歌いたい人は歌い、歌いたくない人は歌わない。拝礼したい人はすればいいし、したくない人はしなければいい。そしてそれが誰からも罰せられない。これだけで当面生じる摩擦は回避できるのです。新しい国旗・国歌はまずその精神が徹底されてから考えればいいことです。
そして過去の戦争の正当化、美化を日本は国として明確に否定し、また市民もそういった言説に対して厳しい態度(たとえばそういうことを言う人は政治家として選挙に当選させない)を取る事が必要です。そうしなければ過去の戦争によって傷を負った人たちが、また傷を負うことになるからです。そしてそれは結果的に日の丸や君が代への嫌悪感を強める事にもなるでしょう。
ちなみにそういう言説を取る人が、日本の政界や論壇に絶えないから、そういった言説が起きるたびに中国、韓国、朝鮮といった国々が「遺憾の意」を表明したりする事態になっています。
過去の戦争を肯定したり美化したりする人たちはしばしば「日本は何度も謝罪を要求される。一体いつまで謝ればいいのか」などと言いますが、実のところ謝罪を台無しにしていうのは過去の戦争を肯定している人たちであって、これはマッチポンプ以外のなにものでもありませんよね。
以上、思いのほか長くなってしまいましたが、参考になれば幸いです。
はじめまして。わたしも不勉強な身で僭越ですが、わたしの思うところを書かせていただきます。最初に申し上げておきますが、わたしは国旗や国歌というものに基本的にあまり思い入れや感慨を抱かない人間ですので、そこのところは割り引いてお読みください。
> 日の丸に変わる国旗が成立できうるのだろうかということです。
わたしも多分難しいと思います。繰り返しになりますが、日の丸はデザイン的にはシンプルでよくできている部類のものだと思います。これに代わるものとなると、どういうものがいいのかわたしには見当もつきません(笑)
ただ、だからといってこれをわだかまりなく掲げ仰ぐ事ができないのも先述したとおりです。
極端な話、わたしは「国旗・国歌は必要なのか?」とも考えます。確かに国際大会での表彰式や船舶の国籍確認などで困った事になるかもしれませんが、逆に言えばそれだけの事です。白い布地に「日本」とか「NIHON」とか書いておけば、要は日本のものだとわかるので、実務的なところで問題はほとんど生じないでしょう。
国歌については、「わが国に国歌はありません」で済ませればいいことです。
あとは掲げ、歌う側の心情的な問題です。やはり寂しいということであれば、国旗を使えばいいし、歌が歌いたければ君が代でも365歩のマーチでも歌えばいいと思いますが、それは喫緊に議論する課題でもありません。
そもそも論になりますが、問題なのは「国旗への拝礼」や「国家の斉唱」を強要する事です。ですからたとえ新しい国旗・国歌を制定したとしても、それが強制され、従わない人に処罰が加えられるような事があれば、わたしはそれに反対します。
大切なのは旗や歌ではなく、個人の内面の自由、尊厳をいかに守るか、という事です。
ですから「どんな国旗や国歌なら満足なのか?」というしばしば強制賛成派から投げかけられる問いは、そもそも強制に反対している人たちが何を問題にしているのか理解できていない、あるいは理解していながら敢えて議論の本質を誤魔化す問いなのです。
国際大会の折、日の丸が掲げられ、君が代が流れたとしても、それに対する拝礼や斉唱を強制しなければ、実のところそれで済む話です。
日の丸君が代が日本の国旗国歌としてふさわしくないという考えはあって当然です。それは歴史をかんがみても、また個人の思想信条の自由からも当然の事でしょう。そしてその考えが多くの人に受け入れられるようになれば、その時は議論して新しい国旗と国歌を定めればいいのです。
ただ繰り返しになりますが、どんな国旗や国歌でもそれに対する拝礼や斉唱を強制してはいけません。また逆に「掲げない事」「拝礼しない事」「歌わない事」を強制するのもいけません。それは民主主義の精神(基本的人権の尊重)に悖る事だからです。
もちろん日本という国が、過去の戦争を正当化したり、あるいはその加害責任を相対化して免責するような言説ときっぱりと決別し、国として謝罪を明確にすれば、時間はかかるでしょうが日の丸も、ガリクソンさんの言うように自由主義の象徴として受け入れられていくかもしれません。
君が代はどうかな…。あれは歌詞がとても民主的とは思えませんので。
ただ、そうなったとしても(しつこいようですが)それを国民であれ誰であれ、強制する事が許されるわけではありません。そしてそれは過去の戦争や国家的な暴力に対して日本が被害にあった世界の国々と、そして人々に真摯に謝罪し、その謝罪を裏切らない事で得られる付随的な結果でしかありません。日の丸を認めてもらうために、謝罪をするのだとしたら、それはその謝罪の意味を完全に取り違えた行為になるでしょう。
結論としては、新しい国旗や国歌が必要かどうかも含めて慌てて決めなければいけないような事ではありません。それよりも今現在起きている処罰を伴う強制をいかにやめさせていくかという事こそが大事だと考えます。
仰ぎたくない旗を仰がされる、歌いたくない歌を歌わされる。そういった個人の自由を無視した不法が現在起きていて、それを解決するために「誰もがわだかまりなく仰ぎ歌うことができる国旗国歌」を制定する、というのはひとつの考え方ではありますが、ビルさんも仰ったようにそれはあまりに現実的ではありませんよね。
当たり前の事ですが人間が十人十色であるのですから、どんな旗や歌でも、”誰もがわだかまりなく”掲げたり歌ったりする事は、多分不可能でしょう。音痴でそれを自覚し恥じている人間にとっては公の場で下手な歌を歌わされる事自体が暴力と言えます(笑)が、それは置いといて。
それよりも歌いたい人は歌い、歌いたくない人は歌わない。拝礼したい人はすればいいし、したくない人はしなければいい。そしてそれが誰からも罰せられない。これだけで当面生じる摩擦は回避できるのです。新しい国旗・国歌はまずその精神が徹底されてから考えればいいことです。
そして過去の戦争の正当化、美化を日本は国として明確に否定し、また市民もそういった言説に対して厳しい態度(たとえばそういうことを言う人は政治家として選挙に当選させない)を取る事が必要です。そうしなければ過去の戦争によって傷を負った人たちが、また傷を負うことになるからです。そしてそれは結果的に日の丸や君が代への嫌悪感を強める事にもなるでしょう。
ちなみにそういう言説を取る人が、日本の政界や論壇に絶えないから、そういった言説が起きるたびに中国、韓国、朝鮮といった国々が「遺憾の意」を表明したりする事態になっています。
過去の戦争を肯定したり美化したりする人たちはしばしば「日本は何度も謝罪を要求される。一体いつまで謝ればいいのか」などと言いますが、実のところ謝罪を台無しにしていうのは過去の戦争を肯定している人たちであって、これはマッチポンプ以外のなにものでもありませんよね。
以上、思いのほか長くなってしまいましたが、参考になれば幸いです。
観測霊 さんへ
はじめまして。金魚っていいます。
長文を読むのは(もちろん書くのも)苦手なんですが、全文飛ばさず読みました。
すべて同意見です。思想は人それぞれです。
なんでこんな議論になっているのか、本当の歴史はどうなのか、勉強していきたいと思います。
ただ過去の機密事項は、各国のえらいさん方がたくさん隠していると思うので、むずかしいです。
長文を読むのは(もちろん書くのも)苦手なんですが、全文飛ばさず読みました。
すべて同意見です。思想は人それぞれです。
なんでこんな議論になっているのか、本当の歴史はどうなのか、勉強していきたいと思います。
ただ過去の機密事項は、各国のえらいさん方がたくさん隠していると思うので、むずかしいです。
観測霊さんへ
>観測霊さん
いろいろと回答いただき、もう少しちがった面からも日の丸問題を考えることができました。ありがとうございました。
>歌いたい人は歌い、歌いたくない人は歌わない。拝礼したい人はすればいいし、したくない人はしなければいい。そしてそれが誰からも罰せられない。これだけで当面生じる摩擦は回避できるのです。新しい国旗・国歌はまずその精神が徹底されてから考えればいいことです。
まさにその通りだと思います。
>どんな国旗や国歌でもそれに対する拝礼や斉唱を強制してはいけません。また逆に「掲げない事」「拝礼しない事」「歌わない事」を強制するのもいけません。それは民主主義の精神(基本的人権の尊重)に悖る事だからです。
強制的に歌わせようとしている人たちは、学校では日教組を中心とした先生たちが「強制的」に「歌わせない」ように生徒に教えているために条例を設けてまで「強制的」に「歌わせよう」としているのだと思いますが、条例を儲ける前にもう少しお互い話し合いの余地はなかったんでしょうかね。
いろいろと回答いただき、もう少しちがった面からも日の丸問題を考えることができました。ありがとうございました。
>歌いたい人は歌い、歌いたくない人は歌わない。拝礼したい人はすればいいし、したくない人はしなければいい。そしてそれが誰からも罰せられない。これだけで当面生じる摩擦は回避できるのです。新しい国旗・国歌はまずその精神が徹底されてから考えればいいことです。
まさにその通りだと思います。
>どんな国旗や国歌でもそれに対する拝礼や斉唱を強制してはいけません。また逆に「掲げない事」「拝礼しない事」「歌わない事」を強制するのもいけません。それは民主主義の精神(基本的人権の尊重)に悖る事だからです。
強制的に歌わせようとしている人たちは、学校では日教組を中心とした先生たちが「強制的」に「歌わせない」ように生徒に教えているために条例を設けてまで「強制的」に「歌わせよう」としているのだと思いますが、条例を儲ける前にもう少しお互い話し合いの余地はなかったんでしょうかね。
ビルさんへ
横レスにて失礼します。
>強制的に歌わせようとしている人たちは、学校では日教組を中心とした先生たちが
>「強制的」に「歌わせない」ように生徒に教えているために条例を設けてまで
>「強制的」に「歌わせよう」としているのだと思いますが、
卒業式や入学式において日教組を中心とした教師たちが、
生徒たちに強制的に歌わせないようにしているという
事実はありません。
そういう教師が存在しているというのでしたら、
出典を明らかにして事例を教えていただけますか?
>強制的に歌わせようとしている人たちは、学校では日教組を中心とした先生たちが
>「強制的」に「歌わせない」ように生徒に教えているために条例を設けてまで
>「強制的」に「歌わせよう」としているのだと思いますが、
卒業式や入学式において日教組を中心とした教師たちが、
生徒たちに強制的に歌わせないようにしているという
事実はありません。
そういう教師が存在しているというのでしたら、
出典を明らかにして事例を教えていただけますか?
> 金魚さん
どうもありがとうございます。恐縮です。なかなか手短にまとめられず、ご面倒をおかけしました。わたしもいろいろ勉強していきたいと思っています。
> ただ過去の機密事項は、各国のえらいさん方がたくさん隠していると思うので、むずかしいです。
日本の場合、敗戦に際して大量の文書が廃棄されてしまったり、散逸してしまったりしたと聞きます。本当のところを知るのは難しいですが、なるべく知ろうとすることは無駄ではないと思っています。
> ビルさん
お返事をいただきありがとうございます。
「歌いたい人は歌い、歌いたくない人は歌わない。誰もそれを強制しない」本当に、これだけの事なはずなんですけどね(^_^;)
> 強制的に歌わせようとしている人たちは、学校では日教組を中心とした先生たちが「強制的」に「歌わせない」ように生徒に教えているために条例を設けてまで「強制的」に「歌わせよう」としているのだと思いますが、条例を儲ける前にもう少しお互い話し合いの余地はなかったんでしょうかね。
うーん、フリスキーさんもおっしゃってますけど、”日教組を中心とした先生たちが「強制的」に「歌わせない」ように生徒に教えている”というお話は、わたしも寡聞ながら存じません。
「歌わせないように強制する」とまではいかなくとも、先生が日の丸や君が代を批判して、そのために生徒が日の丸君が代を拝礼斉唱しづらくなってしまった、というレベルの事はあるかもしれませんが…。
ただ、もし「強制的に歌わせない」先生がいたとしたら、それはその先生の問題であって、上司(主任や教頭や校長)がそんな事をやめるよう指導すれば済む話ですよね。それを条例や法律を作って、すべての先生に強制しようというのは方法としておかしいのではないでしょうか。
万が一、「強制的に歌わせない」先生たちがあまりに多くて、それが非常に深刻な状況であるとしても、その問題は「国旗国歌を拝礼斉唱しない」事ではありませんよね。「人ぞれぞれの内心に強制的に介入する」事であるはずです。その解決方法が「みんなに強制する」のでは明らかに論理矛盾です。
つまり”条例を設けてまで「強制的」に「歌わせよう」としている”人たちは”日教組を中心とした先生たちが「強制的」に「歌わせない」ように生徒に教えている”から、生徒たちの心の自由を守るために条例を設けたのではなくて(「不斉唱の強制」から守るために「斉唱を強制」するというのはどう考えてもおかしいですよね。先生や生徒の内心の自由を守るのであれば)、逆にそういう人たちが”「強制的」に「歌わせる」”事を目的として条例を設けて、それに対して先生が反発している、というのが実際のところだと思います。
これに対して「話し合いの余地」がなかったのか、と問うのならば、その相手は条例を設けた側に対してであるべきでしょう。
国や警察など公の組織が動いて、誰かを束縛したり拘束したりする時、わたしたちは、その束縛されたり拘束されたりした人が「何かよほどのことをやらかしたのではないか」という疑いをなんとなく持ってしまいがちです。社会の秩序を守る国や警察が、そうそう不当な事をするはずがないという思い込み(あるいはそうあってほしいという希望)があるからでしょう。
この問題も先生たちが条例で縛られるのは、何か先生たちがやらかしたから、そのためにやむを得ず条例が作られたのではないか、と考えてしまいそうになりますが、しかし、国も警察も自治体も、人間の集まりである以上、過ちを犯しますし、不当な事をしばしば行います。
日の丸や君が代を強制する条例は、先生や生徒の「内心の自由」を守るものではありませんし、こうした強制で日の丸や君が代を愛する心が育つかとは思えません。東京都や大阪府市が犯した過ちなのではないでしょうか。
どうもありがとうございます。恐縮です。なかなか手短にまとめられず、ご面倒をおかけしました。わたしもいろいろ勉強していきたいと思っています。
> ただ過去の機密事項は、各国のえらいさん方がたくさん隠していると思うので、むずかしいです。
日本の場合、敗戦に際して大量の文書が廃棄されてしまったり、散逸してしまったりしたと聞きます。本当のところを知るのは難しいですが、なるべく知ろうとすることは無駄ではないと思っています。
> ビルさん
お返事をいただきありがとうございます。
「歌いたい人は歌い、歌いたくない人は歌わない。誰もそれを強制しない」本当に、これだけの事なはずなんですけどね(^_^;)
> 強制的に歌わせようとしている人たちは、学校では日教組を中心とした先生たちが「強制的」に「歌わせない」ように生徒に教えているために条例を設けてまで「強制的」に「歌わせよう」としているのだと思いますが、条例を儲ける前にもう少しお互い話し合いの余地はなかったんでしょうかね。
うーん、フリスキーさんもおっしゃってますけど、”日教組を中心とした先生たちが「強制的」に「歌わせない」ように生徒に教えている”というお話は、わたしも寡聞ながら存じません。
「歌わせないように強制する」とまではいかなくとも、先生が日の丸や君が代を批判して、そのために生徒が日の丸君が代を拝礼斉唱しづらくなってしまった、というレベルの事はあるかもしれませんが…。
ただ、もし「強制的に歌わせない」先生がいたとしたら、それはその先生の問題であって、上司(主任や教頭や校長)がそんな事をやめるよう指導すれば済む話ですよね。それを条例や法律を作って、すべての先生に強制しようというのは方法としておかしいのではないでしょうか。
万が一、「強制的に歌わせない」先生たちがあまりに多くて、それが非常に深刻な状況であるとしても、その問題は「国旗国歌を拝礼斉唱しない」事ではありませんよね。「人ぞれぞれの内心に強制的に介入する」事であるはずです。その解決方法が「みんなに強制する」のでは明らかに論理矛盾です。
つまり”条例を設けてまで「強制的」に「歌わせよう」としている”人たちは”日教組を中心とした先生たちが「強制的」に「歌わせない」ように生徒に教えている”から、生徒たちの心の自由を守るために条例を設けたのではなくて(「不斉唱の強制」から守るために「斉唱を強制」するというのはどう考えてもおかしいですよね。先生や生徒の内心の自由を守るのであれば)、逆にそういう人たちが”「強制的」に「歌わせる」”事を目的として条例を設けて、それに対して先生が反発している、というのが実際のところだと思います。
これに対して「話し合いの余地」がなかったのか、と問うのならば、その相手は条例を設けた側に対してであるべきでしょう。
国や警察など公の組織が動いて、誰かを束縛したり拘束したりする時、わたしたちは、その束縛されたり拘束されたりした人が「何かよほどのことをやらかしたのではないか」という疑いをなんとなく持ってしまいがちです。社会の秩序を守る国や警察が、そうそう不当な事をするはずがないという思い込み(あるいはそうあってほしいという希望)があるからでしょう。
この問題も先生たちが条例で縛られるのは、何か先生たちがやらかしたから、そのためにやむを得ず条例が作られたのではないか、と考えてしまいそうになりますが、しかし、国も警察も自治体も、人間の集まりである以上、過ちを犯しますし、不当な事をしばしば行います。
日の丸や君が代を強制する条例は、先生や生徒の「内心の自由」を守るものではありませんし、こうした強制で日の丸や君が代を愛する心が育つかとは思えません。東京都や大阪府市が犯した過ちなのではないでしょうか。
>「強制的に歌わせないようにしている日教組」というような意見について
以前こんな記事を書いたことがありましたので、ペタリ。
『「国旗国歌への『反対』を強制」なんて誰もしてないし、技術的に不可能。』
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-990.html
『「国旗国歌への『反対』を強制」なんて誰もしてないし、技術的に不可能。』
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-990.html
言葉足らずでした
皆様いろいろご意見ありがとうございます。
すみません、少し言葉足らずでした。
私が書こうとしたのは、強制的に歌わせようとしている人たちは、日教組を中心とした先生たちが強制的に歌わせないように生徒に教えていると「思い込んでいる」ため歌わせようとしている と書くつもりが言葉足らずで違った意味になってしまいました。
むろん私も先生たちが強制的に「歌わせない」ようにしているとは考えていません。
ただ自己分析するに、無意識てきにせよあんな文章になってしまったのは、国歌斉唱しない学校でも歌いたいと思う生徒だって少しはいるだろう、みんな全員歌いたくないということはありえるのだろうかと私が考えているからだと思います。だから逆に歌いたくない人の権利も断固守られるべきだと思っています。
すみません、少し言葉足らずでした。
私が書こうとしたのは、強制的に歌わせようとしている人たちは、日教組を中心とした先生たちが強制的に歌わせないように生徒に教えていると「思い込んでいる」ため歌わせようとしている と書くつもりが言葉足らずで違った意味になってしまいました。
むろん私も先生たちが強制的に「歌わせない」ようにしているとは考えていません。
ただ自己分析するに、無意識てきにせよあんな文章になってしまったのは、国歌斉唱しない学校でも歌いたいと思う生徒だって少しはいるだろう、みんな全員歌いたくないということはありえるのだろうかと私が考えているからだと思います。だから逆に歌いたくない人の権利も断固守られるべきだと思っています。
> ビルさん
なるほど、了解しました。こちらこそ失礼をいたしました。
> 強制的に歌わせようとしている人たちは、日教組を中心とした先生たちが強制的に歌わせないように生徒に教えていると「思い込んでいる」ため歌わせようとしている
「強制的に歌わせようとしている人たち」なりの危機感があっての条例が出されてきたということですね。確かにあり得ることだと思います。
> 国歌斉唱しない学校でも歌いたいと思う生徒だって少しはいるだろう、みんな全員歌いたくないということはありえるのだろうかと
> だから逆に歌いたくない人の権利も断固守られるべきだと思っています。
同意です。
わたし自身は「君が代なんて卒業式で歌わなくても…」と思う人間ですので、歌いたい人の気持ちというのは解らないところもあるのですが、だからといって不快だから歌うなとは言えないし言ってはいけないわけで。
今後君が代が国歌、日の丸が国旗である限り、卒業式の式次第からその斉唱や掲揚が消えることはないのでしょうけど、やりたい人がいるなら、こちらに強制されない限りはそれを認めていかなければならないんですよね。多少の事はあっても、互いの権利を断固として守るために、そうするのが一番の方法だとわたしも思います。
そうすれば「歌いたい人」の権利も「歌いたくない人」の権利も守られるのに、強制を進める人たちの強圧的な態度に接すると、彼らは、この二つの権利が並び立たない、同時に実現不可能だと考えているのかと思う時があります(たぶん「みんなが歌う事」にこそ価値があるという、全体主義的嗜好があるのかなと推測していますけど)。
なるほど、了解しました。こちらこそ失礼をいたしました。
> 強制的に歌わせようとしている人たちは、日教組を中心とした先生たちが強制的に歌わせないように生徒に教えていると「思い込んでいる」ため歌わせようとしている
「強制的に歌わせようとしている人たち」なりの危機感があっての条例が出されてきたということですね。確かにあり得ることだと思います。
> 国歌斉唱しない学校でも歌いたいと思う生徒だって少しはいるだろう、みんな全員歌いたくないということはありえるのだろうかと
> だから逆に歌いたくない人の権利も断固守られるべきだと思っています。
同意です。
わたし自身は「君が代なんて卒業式で歌わなくても…」と思う人間ですので、歌いたい人の気持ちというのは解らないところもあるのですが、だからといって不快だから歌うなとは言えないし言ってはいけないわけで。
今後君が代が国歌、日の丸が国旗である限り、卒業式の式次第からその斉唱や掲揚が消えることはないのでしょうけど、やりたい人がいるなら、こちらに強制されない限りはそれを認めていかなければならないんですよね。多少の事はあっても、互いの権利を断固として守るために、そうするのが一番の方法だとわたしも思います。
そうすれば「歌いたい人」の権利も「歌いたくない人」の権利も守られるのに、強制を進める人たちの強圧的な態度に接すると、彼らは、この二つの権利が並び立たない、同時に実現不可能だと考えているのかと思う時があります(たぶん「みんなが歌う事」にこそ価値があるという、全体主義的嗜好があるのかなと推測していますけど)。
Re: >「強制的に歌わせないようにしている日教組」というような意見について>村野瀬玲奈さん
あざーーーす(^^)
後ほどトラバをお送りいたしやーす
後ほどトラバをお送りいたしやーす
ありがとうございます
>観測霊さん
私のつたない質問に真摯にお答えいただきありがとうございます。
生徒たちにとって思い出深い式典になるようにまわりの大人たちはそれをサポートしてやればいいだけの話なんでしょうにね。
私は、若干右よりな考え方の立場からこちらのサイトに質問させていただいていますが、みなさんのご意見を拝見させていただき狭い視野が少しは広がればと思っています。
どうもありがとうございました。
>村野さん
ご紹介いただいた村野さんのサイトも拝見させていただきました。いろいろ参考になりました。ありがとうございます
私のつたない質問に真摯にお答えいただきありがとうございます。
生徒たちにとって思い出深い式典になるようにまわりの大人たちはそれをサポートしてやればいいだけの話なんでしょうにね。
私は、若干右よりな考え方の立場からこちらのサイトに質問させていただいていますが、みなさんのご意見を拝見させていただき狭い視野が少しは広がればと思っています。
どうもありがとうございました。
>村野さん
ご紹介いただいた村野さんのサイトも拝見させていただきました。いろいろ参考になりました。ありがとうございます