コメント
維新―新しく政体を改める―の会
いつものことながらバカ殿がお騒がせしております
さて復帰ネタはやはりこれですか。毎度のことながら大阪発の日本の恥さらしで申し訳ないです。
この問題、大阪では長年にわたり自民党が悲願としていました。今回の選挙の結果を受け、悲願成就の機会とみた自民党が提案したのですが、それは、あくまで罰則等のない単なる義務化の条例案でした(それでも嫌気がさしますが)。その提案に対し、バカ殿が数の力に任せてさらに過激な案を提案してきた次第です。
今、この国が抱えている大きな災厄に対しやるべきことがいくらでもある筈なのに、選挙で得た権力をこんな暴挙にしか使えないとは。民主主義を、数の力による独裁としか思っていない、このバカ殿に権力を与えるのはあまりに危険すぎです。このバカ殿をいかにすれば政治から離れさせることができるか、いい知恵が欲しいものです。
ちなみに、大阪府教育長は、良識があると見え、この条例案に反対しています
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110528-00000500-san-soci
>jeanvaljean様へ
余計なお世話かもしれませんが、大阪のバカ殿は橋下と申します。
今、震災の対応で大変な思いをしている茨城県知事と間違えるのは、あまりにかわいそうですよ(といってもこちらもあまりほめられた知事ではなさそうですがw)。
出来れば編集されることをお勧めします。
ついでに最近のバカ殿ネタをひとつ
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201105/2011052600695
全くもって余計なお世話もいいところですね。
この考え、突き詰めていけば結局誰か一人に任せちゃえば物事すべてうまくいくってところに行きついてしまうんじゃないでしょうかね。
民主主義ってやつは、多様な考えを議論をすることで一つの方向に意見を集約していくもので、多数決ってのはどうしても意見がまとまらないときの最後の手段のはずなんですが、どうも最近は数の力による独裁の追認手段としか思っていない政治家が多すぎるようです。国旗国歌の下に思想統制しようなどという発想を教育に持ち込むことに必死で、多様な考え方を受容するという、民主主義にとってもっとも重要なことを無視するバカ殿には、民主主義の基本は永遠に分からないのでしょうね。
No title
判決を出した裁判官の名前をしっかりと胸に刻んで
おきます。
訂正
最高裁の判決には驚きました。業務命令を市民の権利に優先させた、許せない判決です。
ひとりの裁判官が理由のひとつに、「他国の国旗、国歌に対して敬意をもって接するという国際常識を身に付けるためにも、まず自分の国の国旗、国歌に対する敬意が必要」と言ったそうですが、これはもはや法律家の言葉ではありません。人権の番人が、これほどまでに堕落していることは衝撃です。
世界の常識の物笑いの種になるでしょう。
「我々は国旗への冒涜行為を罰することによって、国旗を聖化するものではない。これを罰することは、この大切な象徴が表すところの自由を損なうことになる」
まだまだご多忙の中、更新ご苦労様です。復帰を嬉しく思いますが、ご無理のありませんように。
…しかしまぁ、本当にどうしようもない人だなと改めて思います>橋下知事
「俺のいうことを聞かないやつはクビだ!」って事でしょう、という『大脇道場』の友さんのまとめが秀逸です。なんでこんな条例が提出されて、なおかつこれを支持する人が一定数いるのか、本当に分かりません。「ほかにすることはないのですか」とか小一時間問い詰めたい。
職務命令だから従って当然って人もいますけど、あのね、憲法って言うのがあってねっていうところから説明しないといけないのかな、とちょっと頭が痛いです。
あと、表面上だけ従えば良い、内心でどう思ってようと自由なんだから「内心の自由」は侵害されていないとか、本気で言ってるのかな、と。江戸時代の絵踏みと構造は一緒ですよ?古代の奴隷だって、内心で主人に悪態つくくらいはやってたでしょうよ。そんな程度の自由でみんな満足なの?近代以降、自由と権利獲得のために先人たちがしてきた努力ってなんだったのかなと、虚無感に襲われます。
http://bit.ly/8cWVhB
少し古い記事ですが、現在においても的確です。
>観測霊様
こういう説明をしなければならないような人間が、我が国の司法の頂点である最高裁の判事や、地方公共団体の首長(しかも元弁護士)をやっているという現実が実に恐ろしいことです。
民主主義の基本中の基本を守らずして、何が国家への忠誠なんでしょうかね。
教師組合が機能しないという日本の現実
英国では決して起きないことが日本で起きていて、なおかつ司法がそれにお墨付きを与える。まるで妄想非科学小説を無理矢理読まされている気分です。
▼卒業式の“君が代騒動”描く 「歌わせたい男たち」
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/stage/theater/20050928et05.htm
・・・
もともと、この芝居は、英国で劇作家の登竜門として知られる劇場ブッシュ・シアターとの提携公演のために企画された。しかし、粗筋を同劇場の芸術監督に送ったところ、「現代のロンドン市民には理解できない」と却下されたという。
・・・
No title
ご無沙汰しております。
本当に、なんであんな人が知事やってるんでしょうね…。
> こういう説明をしなければならないような人間が、我が国の司法の頂点である最高裁の判事や、地方公共団体の首長(しかも元弁護士)をやっているという現実が実に恐ろしいことです。
ですねぇ…(-_-;)「解った上でやっている」のかもしれませんけど(であるならばなおさら問題)。本当に、この国の最高裁はろくな仕事しませんね、基本的にorz(傍論で、比較的良心的な意見を言っている判事もいたようですが)
> 民主主義の基本中の基本を守らずして、何が国家への忠誠なんでしょうかね。
「民主主義=多数決」とか、小学生の学級会以下のレベルの認識のようですからね、われらが知事は。
> 檜原転石さん
はじめまして。『歌わせたい男たち』のロンドンでのエピソード、興味深く拝読しました。
「現代のロンドン市民には」という却下理由が冴えてますね。「産業革命の最中のロンドン市民」になら理解してもらえたのかもしれませんね。
フランスでは、強固に守られている公務員
ついでに、「サッカー場にいってご覧なさい。ラ・マルセイエーズが流れたら、ブーイングが起こるを知っていますか?」と逆に聞かれました。
あーあ、本音を言っちゃった
世は管内閣の醜態の話題で持ちきりの中、全くもってとんでもない発言をしてくれたものです。やっぱり本音は隠せないということですね。他人のことは痛烈に批判しておきながらこの状況をしっかりと政治利用するような奴に、今回の事態を批判する権利はありません。
ちょっと気になるのは朝刊での扱い。社会面の片隅で見出しも「「日本の政治は機能していない」の方で出しています。またバカ殿翼賛の産経に至っては「独裁」の文言はきれいさっぱり消えています。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110603-00000510-san-pol
報道機関が民主主義を否定する発言を批判しないだけでなく、隠蔽まで行おうとしていることに悪寒を禁じ得ません。
大阪から民主主義が消えつつあります
もう無茶苦茶なことになってしまいました。バカ殿新党は完璧に民主主義の否定をしてしまいました。何度でも言いますが、民主主義は多くの意見を出し合い、話し合って妥協点を見出すことが本質であって、多数決はどうしても意見がまとまらないときの最終的な手段のはずです。何が何でも多数の力で押し切るのなら、議会の機能の否定でしかありません。バカ殿は「日本の政治は機能していない」とほざきましたが、大阪の政治も民主主義の観点でいえば、機能停止してしまっています。独裁肯定発言をやってのけたバカ殿にとっては、それこそが真の狙いなんでしょう。有効得票の半数にも満たないはずが、小選挙区の恩恵で過半数の議席を取ってしまった政党が、党首の独断を勝手に民意に置き換えて横暴の限りを尽くす。大阪はファシズムの嵐が渦巻く、日本の恥の象徴する自治体になってしまうのでしょうか。
コメントをくださった皆様へ
君が代強制条例=21世紀の不敬罪成立に私は相当頭に来ています。
書きたいことがたくさんあります。
後日になりますが、コメントへのお返事と新しいエントリーを必ず書きますので、もうしばらくお時間をください。申し訳ありません。
> 2割しかいない少数派の府民さん
なかなかPCの前でじっくり文章を打てないのでまだ復帰とまでは行かなくて・・、最近は片手間で携帯でmixiに書き込んだりしています。
バカ殿を後押しする最高裁判決、君が代強制条例、府議会の定数削減強制可決と、とうとう本領発揮です。
今回バカ殿のツイログ見てあっけにとられました。http://twilog.org/t_ishin/date-110519
バカ殿のツイッターは極上のネタの宝庫ですよ。
>不肖の弟子さん
http://tukui.blog55.fc2.com/blog-entry-876.html
竹内行夫裁判官の補足意見は例によって言語道断ですが。
バカ殿にとっては手のひらは返すためにあるのです
件のTwitterですが、今年の2月1日から2か月限定のはずでしたが、何故かいまだに存在しての言いたい放題。こんなところでもしっかりと手のひらを反しています。このバカ殿にとっては約束など何の意味もないのでしょう。一方で、先の統一選での公約に今回の条例案などなかったのに、勝手に民意だと言い張って強引に条例化してしまいました。自分で口にした約束は守らない、約束してないことを勝手に約束に変えてしまう。こんな身勝手なことをしたら、民間の企業ならとても怖くて使えない奴になるはずなんですがねぇ。
なお以前にもご紹介したかと思いますが、このTwitterに対する極めて冷静な突っ込み集(正確には検証サイト)がございますのでご紹介しておきます。
We need the Fact
http://sites.google.com/site/weneedthefact/
>観測霊さん
ご紹介のサイトありがとうございました。端的にまとまっててよかったです。
> 職務命令だから従って当然って人もいますけど、あのね、憲法って言うのがあってねっていうところから説明しないといけないのかな、とちょっと頭が痛いです。
激しく同意です。
憲法ってのがあって、人権てのがあって、その中核が思想信条の自由で、それは何より尊重されなくてはならないもので、・・・と、まるで生まれて初めて人権という観念に触れた過去の人に対してみたいに、一から説明せねばならないのは脱力です。
「加害者に人権などない!被害者のことも考えろ!」の時も似たような気持ちになりますね。
あのね、憲法ってのがあって、人権てのがあって・・から始めなくてはならないのですから。
人権について無知すぎてとても「先進民主主義国」の構成員とは思われないレスのなんと多いことか。これではいくら民主主義の「制度」は整っていても、実際に民主主義は機能しないのも当然だとため息が出ます。
しかし無理もない、高校の授業で歴史はせいぜい第二次大戦前まで、公民では憲法の授業なんてほんのわずか。せいぜい「憲法の3本柱は国民主権、基本的人権の尊重、平和主義」くらいえd、人権について深く突っ込んだ話や実践的な学びなどほとんどないのではないでしょうか。
先進民主主義国だとこの人権教育に力が注がれます。労働者はどういう権利があって、不当な行為を受けたら実際どのように交渉し、裁判所に訴えればいいのか、なんてロールプレイもするようです。
不当な労働環境に苦しみながら決して立ち上がろうとしない日本の非正規労働者に授業を受けさせてあげたいくらいです。だから「内心の自由」が侵害されても鈍感なのでしょう。自由がどれほどたくさんの犠牲の上に勝ち取られた尊い権利か、わからないのだと思います。
実際大阪では喜んでバカ殿軍団に自由を奪われたい人がけっこういるようですね。
> 2割しかいない少数派の府民さん 追記ありです
4月で止まってるみたいで少々残念ですが、なんといってもバカ殿はツイート数が多いですから検証が大変、止まってても無理ないですね。
ご紹介したツイログを元にもう少しエントリーを書きたいです。
そうそう、バカ殿はご紹介したツイログの中で「公務員なら職務命令に絶対服従だ!いやならやめろ!」を連発しているわけですが、そのほんの数日前に自分の修習時代をツイートしています。『僕はまじめに司法修習を受けていなかったのは事実で、色んな会議などに欠席していたのは事実ですが、それは意味のない会議だから』だそうです。
おいおい、修習生って公務員でしょうが!
会議に出席せよって職務命令でしょ!自分は嫌なら上の命令に逆らっても良いけど他人は駄目。
よくまあこんなあけすけにダブルスタンダードなツイートができるなんて、ほんとに幼稚なお子ちゃまです。
しかし今は慎みを備えた大人より、無礼千万な子供の方が受けが良い。所詮お子ちゃま(ユーゲント)にはお子ちゃま(バカ殿)がお似合いなのか・・・
追記
asahicom見ました。
バカ殿の野望丸見え。大阪人民共和国の将軍様になる野望が着々と進行なう
リーダーシップと独裁の区別もつかないとはね。
この男がこんなに憲法、人権に無知で、どうして司法試験通ったのか、謎です
>檜原転石 さん
>jeanvaljeanさん
ミクシーでは大変ご迷惑をお掛けしまして、申し訳ありませんでした。
私は、この条例に断固反対の表明をさせていただきます。
橋下知事は、Twitterにて「公務員ならば君が代に敬意を払え、敬意を払うとは起立することだ」などと述べられていたわけですが、大阪維新の会が提出した条例の立法目的にはそのような趣旨の記述は見られませんでした。
とても汚ないやり方だと思います。
形式的には合憲の可能性もある、しかし実質的には違憲の条例であると思います。
そもそも、これまで最高裁が逃げの判決を行ってきたために、このような実質的に違憲の条例を成立させる事態となったのだと思いますし、本当に三権分立は機能しているのかと疑問に思うところです。
君が代ピアノ伴奏職務命令拒否事件においての藤田裁判官の反対意見は、どこに消え去ってしまったのでしょうか。
これから更なる行政肥大国家、地方分権が進むことが予想されるわけですが、だからこそ司法には、厳格に憲法適合性の審査をしていただきたいと思います。
ところで、大阪府議会の議会運営は健全なのでしょうか。
先日の議員定数削減についての報道をみて、多数決原理の勘違いも甚だしいものだと思いました。
多数決の前提として、慎重な審議や少数派の意見の尊重があり、特にこの前提は重要案件になればなるほど重視されなければならないわけですが、先日の議員定数削減についての採択は、この原理を全く無視したものでした。
議会多数政党の代表が代表ですから、不思議ではありませんが、政治において慎重な審議は排除しないで頂きたいと思いました。
また、鳥取県議会の定数についての発言は、地方自治の本旨である住民自治に反するものであり、謝罪はされましたが、今一度憲法を学習された方がよろしいのではないのでしょうか。
私は、大阪府民ではありませんが、国政にまで影響が及びますと、他人事ではなくなるので、橋下知事の今後の動向に注視していきたいと思います。
貴重なスペース、ありがとうございました。
学校からも業務命令としての出席依頼は出ていないんでしょう。
仮に、A教授が賛美歌を斉唱するような場に出席して、座ったままだったら、どうでしょうね?
出席しないA教授と、出席して起立命令無視の教員を同一視するのは、A教授に失礼なんじゃないですか?
No title
横レス失礼します。
> 学校からも業務命令としての出席依頼は出ていないんでしょう。
失礼ですが、A教授のお勤めの大学の関係者の方で、業務命令がなかったという根拠をお持ちなのでしょうか?でなければどうしてそう思われたんでしょう。おそらく
A教授は処分を受けていない→命令がなかったに違いない
という理路だと思われますが、それは「命令に従わないと必ず処分される」という前提があってのことですよね。その前提そのものがおかしい、不当な命令には従う必要がないというのがこのエントリの主旨だと思います。ですから、仰った推測にはそもそも意味がありません。命令の有無に関わらず、A教授の行動はなんら非難を受けるものではありませんし、ですからこのエントリに対する批判としては的をはずしています。
> 仮に、A教授が賛美歌を斉唱するような場に出席して、座ったままだったら、どうでしょうね?
別に何も起きないと思いますよ。それとも、周囲がA教授に歌えと強要するだろうとお考えなのですか?その根拠は何でしょうか?
そりゃ、不快に思う人もいるでしょうが、だからといってA教授に信仰や祈りを強要することはできないでしょう。たとえそれがキリスト教系の大学の卒業式だったとしても、いえ、だからこそ、個人の尊厳を無視して特定の信仰を強要するなど、宗教者としてあるまじき行為であり、批判されてしかるべき、つまり君が代起立強制と同じことなのです。
ことに宗教者の場合、もし意に反して信仰や祈りを強要したことが公になれば、社会的な打撃は避けられません。「シューキョー」というものに忌避感情のある日本社会では尚更です。ですから、真摯な宗教者ほど、却って慎重になるものなんですよ。
> 出席しないA教授と、出席して起立命令無視の教員を同一視するのは、A教授に失礼なんじゃないですか?
根拠のない勝手な推測でA教授をご自分の主張のための盾にするのは失礼にはあたらないんでしょうか?
くりかえしますが、そもそも不当な命令には従う必要がないというのがこのエントリの主旨だと思われます。たとえA教授に業務命令が出ていたとしても、それを拒否する事はなんら違法性を持ちません。
ドイツ国家についてその他
まず、現在サッカーワールドカップなどで耳にするドイツ国家は、3番まであるうちの3番目だけで、これのみが公式なものとされている。1番と2番は歌詞に問題があって歌われません。
メロディーはオーストリア人のハイドンが作曲したもので、元々オーストリアがハプスブルグ帝国だったころの国家に使われていいたものでした。ハプスブルグ皇帝エリザベスの映画などでは、この音楽が流れるので、なんだか不思議な気持ちになります。
さらに一方、ドイツ帝国時代の国家のメロディーは、現在のイギリス国家「ゴット・セイブ・ザ・クイーン」と同じものでした。他にもこのメロディーを使っている国がいくつかありました。
オーストリアでは数年前、国家のテキストが男性中心的だということで、この国の人気歌手が男女平等で、いわゆるポリティカルコレクトネスを考慮した替え歌を作ったことで、政治さらには憲法問題がらみの大きな論争になりました。(「オーストリアは偉大な息子たちの故郷」というところに「娘」を付け加えた)しかし、結局このテキストは法廷で公式な使用許可が決定されることになりました。歌うと少し「字余り」になるのですが。
この国の国家には、少数民族であるスロベニア系オーストリア人のためのスロベニア語訳バージョンが存在します。
欧州に暮らしていると、「国家」「民族」「言語」「故郷」などの概念を根本的に考えなおさざるをえません。国家ひとつをとっても、どこかの国の国家のテキストやメロディーが突然別の国のものになったり、戦争で奪われたりと非常に複雑な事情をはらんでいる事がよくわかります。
日本にしたって、「単一民族・単一言語」だなんて、歴史も何も無視した、あまりにもいい加減な考え方ですがね。日本の戦前の占領時代の国家を歌うのに抵抗がある人々は少なくないはずですが、今回の大阪の判決に関してはそれ以前の問題でしょう。強制で愛国心を培うことは出来ません。 日本と同じようなファシズムの道を経てきたドイツやオーストリアには、民主主義の精神が少なくとも日本よりもずっと健全に培われていることは、住んでみるとよくわかります。
No title
>> 出席しないA教授と、出席して起立命令無視の教員
卒業式で一斉起立する際に一人座っているというのは明らかな政治的主張行為であって、それは子供が主役の場にふさわしいものなのかと。
正直自分もちょっとひくし、大阪市の例はそれを不愉快に思う人が多数いるということを示しています。そんな人がいたらものすごく困るわけではないにしてもそれが「守られるべき権利」として掲げられることには違和感を感じます。
信仰の自由があると言ってもキャミソールで教会に入ったり葬式で僧侶に頭を下げるのをあくまで拒んだりするのはしばしば眉をひそめられる行為だし、礼拝の時刻になって跪拝を拒否するならモスクなんか行くなよって思います。
教会に条例制定の権利はありませんが「肩を出している人は入場お断り」の掲示くらいはします。
思想の自由という点では教員に式不参加の権利を認めさせる、くらいが落としどころじゃないのでしょうか。
あるいは、より少数派の権利を尊重するならば、通常の式とは別に、国旗国歌を用いないバージョンの式を実行する。自由を守るのは煩雑で面倒なものです。黙って起立拒否、というのは摩擦を呼んで当然のいかにもまずいやり方だったと思います。
テンプレート
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-727.html#comment3427
服装や単なる儀礼の問題と国歌国旗への敬意の強制というものを同列に扱うべきではないと思います。教会の例を出されている方がいますが、戦前、日本のキリスト教界には、統制がかけられ、プロテスタントにおいては諸教会が統合させられることを余儀なくされました。統合させて監視しやすくするためです。そしてミッションスクールにも、宮城遥拝、日の丸君が代、御真影奉戴が強制され、従わないものは処罰を受けました。すさまじい圧力だったことを、当時を知る学校関係者からの話を聞いたことがあります。つまり、国家が全体主義、ナショナリズムを強めていくとき、公権力は、国のシンボルへの強制を始めるのです。国民を支配層に対して従順な羊にするための手始めというわけです。
ですから、現代の先進国では、国のシンボルへの強制をし、従わないものを処罰する国などどこにもありません。アメリカでは、式典における不起立の自由は裁判において認められ、人権として保障されていますので。今の日本の学校現場でやっていることは、世界の非常識であり、異常なことなんです。現代の日本の大衆は、民主主義と人権は自分たちの自覚によって維持されていくのだという意識が無さ過ぎます。やはり、日本は民主主義が未成熟で、根付きが浅いんでしょうね。だから、簡単に人権保障が後退してしまうのだと思います。それを国民が許してしまうのです。
第一、式典において、君が代斉唱の際に演奏の邪魔をする、抗議のジェスチャーをしたり声明を読み上げるという積極的行為は一切無く、ただ黙って座っているだけです。なんら式典の進行を邪魔しているわけでは在りません。東京都では、座っている教員がいると、「何々先生、起立してください」というアナウンスが
会場に流されるといいます。そっちのほうがよっぽど式典の流れをぶち壊していると思います。注意をするのならば、終わってからその教師のところに行き事後的に言えば済む事です。ただ黙って座っている、それだけの不作為に対して、それがさぞかし大問題であるかのように喧伝し、国民に対して印象操作をし、それどころか、強制し、処罰するということが世界の非常識であり異常なことなのに、常識だの、どこの国でもしていることだというデマが流され、そこに騙される大衆たち。
やはりこういう状況を見ていると日本は人権後進国化していると思います。
マナーとか常識とか、そんな卑近なレベルにこの問題の本質を封印させ、まるで
テンプレートのような、型にはまった様な安っぽい教員批判をしている書込みばかりを見ているとため息が出ます。
No title
非常に説得力のある内容で、私がアメリカ国民なら文句なくこれを支持しますが、これをもって日本においてもこの問題が議論の余地なくすでに決着済みであるというのは乱暴です。
「アメリカは民主主義先進国であり自由の光を世界に投げかける正しき良き国でその先例に無条件でならうべき」という前提にたったとしても、その後の国旗保護法案の成立と廃止の経緯をみれば、アメリカがナショナリズムを脱した国であるとは言えないでしょう。
日本は日本で、我が国が「後進的」であった故に今までしなかった議論をアメリカから遅れてするのは自然なことじゃないかと思います。
>マナーとか常識とか、そんな卑近なレベルにこの
「高邁な思想(とそれに通じる自分)」が一般のマナーや常識より高等であり優先されるべきであるというのはイデオロギーです。
私自身としては、起立強制条例に賛成か反対かといえば反対なんですが。
「全体主義=ナショナリズム:絶対悪」「問題が理解できない愚かな大衆」こういうframingでの論理に共感を覚えるのが難しい。
金持ちが不当に貯えた財産を奪うように、人権を「戦って勝ち取るべきもの」という感覚もピンとこない。
正義というのは(話合いであれ他の手段によるのであれ)いずれ一つところに収束するというものではなく、集団の構成要員や様々な要素により常に流動的に変化するものだと考えています。
ともあれお時間とコメント欄の場所を割いていただきありがとうございました。
No title
米国の国旗保護法は、国旗を損壊したり侮辱したりする行為を禁じる法律であって、単に敬意を払わないという不作為を禁じた法律ではありませんよ。敬意を払いさいという行為を要求する法律ではありません。敬意を強制し、それに従わなければ処罰するという事例とこの事例は、趣旨が違います。
>「高邁な思想(とそれに通じる自分)」が一般のマナーや常識より
>高等であり優先されるべきであるというのはイデオロギーです。
マナーや常識というのは、多数派の行動様式であり多数派の思考形式です。私は、これを否定しません。国旗に敬意を払うことがマナーであるということの否定はしません。しかし、人権を侵害する行為、人権を制約する行為の憲法適合性が問われるのは、ほとんどのケースで少数派の人権が問題とされる時なのです。 マナーや常識の名の下にどんな行為や思考形式でも強制されることが許されるのか?私が言いたいのはそこです。人権保障が問題化するのは、少数者の人権なんです。なぜならマジョリティはマジョリティであるゆえにその人権は当たり前のように保障されているのです。しかし、マイノリティはマイノリティであるゆえに、例外的であるゆえにそれだけその人権が侵害されやすい状況に置かれるのです。ですから、内外の憲法訴訟を見れば分かるように、人権を侵害する行為、制約する行為の合憲性が争われる裁判においては、少数者、例外的な人の人権保障が問われることになるのです。この点については、法学館憲法研究所の以下のページがわかりやすいでしょう。
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/06.html
もし、この考えを、あなたが否定的な意味で“イデオロギー”と言われるのならば、あなたは、立憲主義と民主主義と自由主義と人権保障を旨とする日本国憲法の精神を、否定的な意味でイデオロギーと捉えることになります。
>「全体主義=ナショナリズム:絶対悪」「問題が理解できない愚かな大衆」
>こういうframingでの論理に共感を覚えるのが難しい。
全体主義を肯定的に捉えたいのならば、民主主義の根本から見直さないと
いけないですね。時代を遡って、民主主義と自由主義と人権保障の価値を見直さないといけない。私はそんなものに与するつもりはまったくありません。
>金持ちが不当に貯えた財産を奪うように、
>人権を「戦って勝ち取るべきもの」という感覚もピンとこない。
それは、あなたが無知だからです。
19世紀の偉大な法学者であるルドルフ・イェーリングに「権利のための闘争」という大変有名な本があります。イェーリングはこう言っています。
『世界中の一切の法は、闘いとられたものであり、
全ての重要な法規はまず、これを否定する者の手から
奪いとられねばならなかった。国民の権利であれ、
個人の権利であれ、およそ一切の権利の前提は、
いつなんどきでもそれを主張する用意があるということ
である。』
『権利のために闘うことは、自身のためだけでなく、
国家・社会に対する義務であると同時に
法の生成・発展に貢献する』
イェーリングは別に左翼でも共産主義者でもありません。この本で解かれていることは普遍的な視座に立っているもので、橋下徹だってよく知っている本だと思いますよ。法学をかじった人間なら誰でも知っている本だと思います。
市民革命以来、少なからず戦いを、裁判、抗議、要求、主張というなんらかの形で繰り広げられることで、保障を勝ち取ってきたのです。民主化されていない国が民主化されていったプロセスを見て御覧なさい。最近ですと中東の民主化の波がありますね。お隣の韓国の民主化も光州事件いらい民衆の側からの戦いの波があったのです。中国は天安門で大弾圧され押さえつけられてしまったので、まだ人権保障という点で大きく出遅れてしまっていますね。いずれにせよ、黙っていればお上がなんとかしてくれるものではないということは、歴史を振り返ればわかることですので、絶えず、人権、権利については国民の側が意識化しておく必要があるのです。いざ侵害された時には抗議する必要があるのです。それは、イェーリングの言うように、自身のためだけではなく、社会に対する義務であるのです。
戦いというと大袈裟に聞こえますが、既述したように、裁判、抗議、デモ、要求、不服従、その他小さな、日常的なレベルからの権利の主張が含まれ、総体として民衆によって人権が支えられていくのです。
usau3さんがピンと来ないのは、日本の特殊的な事情もあるかもですね。敗戦とその後の占領下という外圧によって民主主義を与えられたわけで、自分たちによる民主化運動でこれを勝ち取ったわけではないので、人権が自分たちにとってかけがえの無いものだという意識が芽生えにくいのでしょう。
ちなみに、第一次世界大戦の敗戦によって、当時のドイツは、ヴェルサイユ体制の側から“押し付けられた”憲法によって民主主義を導入しましたが、自分たちの手で勝ち取った民主主義でないゆえに、根付きが浅く、未成熟で、ゆえに、民主主義的プロセスによってファシズムをもたらし、ナチズムの暴走をゆるしたのですね。戦後のドイツはそのことへの徹底的な反省の元に国が作られていったわけです。だから、ドイツの国家も、1番と2番の歌詞が歌われず、3番だけが歌われると志村さんも指摘されていますよね。
志村さんはこうもおっしゃっていますね。
>日本と同じようなファシズムの道を経てきたドイツやオーストリアには、
>民主主義の精神が少なくとも日本よりもずっと
>健全に培われていることは、住んでみるとよくわかります。
usau3さん、日本という国を、成熟した民主主義の国にしたいと思いませんか。
それとも後戻りさせたいですか。内外の歴史からそこをよく考えましょう。
usau3さんへ
私は、人権とは闘って守らなくてはいけないものだと思います。闘うといっても、人権を守るために、裁判に訴えたり、集会を開いて決議をあげたり、そのことを広く知らせ、人権が守られる社会にするということです。
しかし我々の先輩たちは、フランス革命に見られるように、文字通り闘って人権を獲得したのです。そのために命を落とした人もたくさんいます。その犠牲の上に、私たちは人権を享受しているということを忘れてはならないと思います。
国旗国歌法が審議された1996年の国会で、当時の小渕首相は質問に答え、「政府といたしましては、国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません」と答弁しています。この答弁の上に、国歌国旗法が成立したのです。しかしその後、なし崩しにこの前提を無視する動きが現れたのはご存じの通りです。私たちはこのような、憲法19条の思想・良心の規定に反する動きが続いてきました。usau3さんも反対される、起立強制条例もこの動きのひとつです。
私は、私のブログで小学校の公民の教科書を紹介しています。ぜひ一度訪問してください。その中の、私たちの社会の価値―民主主義というページで、
「民主主義は、いつまでも確実に存在し続けるということはありません。つまりいつでも何人かの人が、民主主義を危機に陥れることもありえるのです。だから各々が、民主主義が尊重されているか、常に監視しながら守らなければなりません」
と書いてあります。http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-386.html#more
それに、小舟に「民主主義」が乗っていて、「不寛容」、「不平等」、「一党独裁」、「外国人嫌い」といったフカが虎視眈々と狙っている挿絵がついています。
日本の教科書については、民主主義についてどのように書かれているか知りません。しかし民主主義を標榜する国民である以上は、人権が脅かされるのを監視し、行動を起こす義務があると思います。そして今おこなわれている不寛容な政治を許してはならないと思います。
それから起立拒否は、基本的人権、つまり憲法19条の思想・良心の権利の行使であり、「高邁な思想」からの行動ではありません。
ご一緒に、起立強制条例に反対していきましょう。
No title
こちらこそ、ご無沙汰しております。ウチのお調子者知事のおかげでさぞご心労のことと思います。いや、もう、本当に申し訳ないですm(__)m
> 実際大阪では喜んでバカ殿軍団に自由を奪われたい人がけっこういるようですね。
自由を奪われるって自覚がないんじゃないかと、最近は感じています。
「知事が攻撃しているのは私たちではない、彼らなのだ、だから私たちが不安に感じたり、問題視する必要はない」
こういう心理ではないかと、的確にツッコミ入れてくださったのが以下の記事です。
http://bit.ly/kSOS8k
もしくは政治への期待度の低いことが、逆に妙な楽観を生んでいるところもあるのかなと。
政治がどうなろうと生活は好転しない→政治は誰がやっても変わらない→政治がどうなろうと自分たちの生活は変わらない。よって今以上に悪くなることもない…という。まぁ間違ってるんですけども(^_^;) 政治で生活は格段に良くも悪くもなりますから。
あと、以前石原知事の表現規制条例に反対してた人たちの一部が、今回の条例にもろ手を挙げて賛成しているのを見ると、ああこの人たちが関心があるのは「自分の自由」であって、他者or社会にとっての自由なんてどうでもいいんだな、とげんなりします。他人の自由を守ろうとしない人たちが「我らに自由を」と叫ぶのはどう考えても滑稽なんですけどもね(^_^;)
ついでにもひとつテンプレートに反論と言うか、ツッコミを。usau3さんのコメントに
> 卒業式で一斉起立する際に一人座っているというのは明らかな政治的主張行為であって、それは子供が主役の場にふさわしいものなのかと。
という箇所があって、こういう「子どもの卒業を祝うべき場面で政治活動するな」っていうのもテンプレートでよく見かけるお話なんですけれども、フリスキーさんの以下のコメント(http://bit.ly/jZ19F6)を参照させていただくと
> 1999年に国歌国旗法が制定されたわけですが、それ以前の入学式・卒業式の
> 国歌斉唱率は、大阪では0%、東京でも5.9%に過ぎません。ところが2000年になっていきなり大阪で100%、東京で99%に跳ね上がりました。遡っても学習指導要領に入学式、卒業式で国歌斉唱する旨の文言が入ったのが1989年ですから、
ということで、それ以前は日の丸や君が代が卒業式に入る余地などなかったわけです。
さて、日の丸君が代に対して起立斉唱を拒否する人の「政治性」を問題にする人たちは、どうして入る余地がなかった日の丸君が代を卒業式に持ち込んだ側の「政治性」は問題にしないのでしょう?日の丸君が代を実施する事は政治的でもなんでもないが、それを拒否する事だけが政治的であるというのは、どうにも理解しづらいのですけどもね(^_^;)日の丸君が代を拒否するのが政治的なら、日の丸君が代に賛意を示したり、不在だったところに導入しようとするのもまた政治的でしょうにね(^_^;)
No title
>ということで、それ以前は日の丸や君が代が卒業式に
>入る余地などなかったわけです。
>さて、日の丸君が代に対して起立斉唱を拒否する人の
>「政治性」を問題にする人たちは、どうして入る余地がなかった
>日の丸君が代を卒業式に持ち込んだ側の「政治性」は
>問題にしないのでしょう?
まったく同感です。さらに公権力によってそれを強制し、従わないものに処罰を与えるって、政治性以外の何物でもないでしょう。ましてや国のシンボルをですよ。そんなことするの先進国ではありえないって何度も言っているのに、賛成派はその点はスルーするのですね。職務命令に従うのは当たり前とか。じゃあ、職務命令ならどんな内容でもいいのかって話ですよ。内容を問わず、なんでも従えじゃ、全体主義そのものだろうに。常識だのマナーだの当たり前だの、そんなレベルにこの問題を封じ込める、その落とし穴にはまっている人が多すぎますね。危険な兆候だと思います。
No title
丁寧なお返事ありがとうございます。
私たちが少数派の権利を尊重するのはわが身に引き換えた時に想像される普遍性の故か、または単に摩擦を避けたいがためです。
思想の自由の普遍性を理解させようという時に、一般常識やマナーや体系的裏付けのない先祖伝来の宗教や社会に根付いた習慣を、自分の尊重する価値観での順位によって簡単に軽んじるべきではないのではないでしょうか。
観測霊さん
>日の丸君が代に対して起立斉唱を拒否する人の「政治性」を問題にする人たちは、どうして
導入決定以前に式の進行を無視して日の丸を掲げる参列者がいれば、やはり異様な光景だと思いますし、それが教師で学校の方針が日の丸不掲揚で、抗議行動として頻繁に起きるならなおさらです。
都道府県レベルでの国歌強制がいずれ全体主義に行きつくというのなら、
自身の権利のためにより「些少な」他人の権利を侵害しても良いと考えるものは、いずれ理念の前には他人の財布や生命さえ軽んじるようになるのではないか、共産主義国家や戦後日本の左翼が歴史に教訓を残したように。
という感え方もあり得るのでは?(二つのゴールに至るまでには数多くの過程がありそれぞれについて判断を下す方が良いと思うけれども)
権利と闘争について;
全ての闘争は当事者の権利を守るためのものと言えますが、権利とは闘争によってのみ維持されるものなのか、あるいは獲得維持の手段として闘争がより望ましいものと言えるのか、という疑問があります。
フランス革命については、近年では否定的評価をされることが多いと聞きます。フランスにとって食糧危機で引き起こされた革命は悲劇であり、もしかして民主化への回り道であり、多くの人命と文化が失われました。
キリスト教が成功したのは弾圧に耐え敵対勢力を滅亡させてきたからでオウムが失敗したのは国家との闘争に敗れたからとも言えますが、宗教や思想に対する歴史的な弾圧と抵抗の激しさというのは、その後の受容のされ方と正の相関はありません。
払った犠牲の大きさが手に入れた/入れるべきものの価値を裏付けると思うのは自然な心理(大戦で大勢の犠牲者が出たからこそ、日本は引き返せなかった)とはいえ、必ずしも合理的とは言えないと思います。
自由と民主主義が必ず流血と打倒すべき敵を要求するものでないならば、犠牲を避けられたことを喜ぶべきです。
>イエーリングの著書
「隣国によって1平方マイルの領土を奪われながら膺懲の挙に出ない国は、その他の領土をも奪われてゆき、ついには領土を全く失って国家として存立することをやめてしまうであろう」
こういう引用を見ると、右翼の人も共感しているのかもと思います。
今度読んでみます。
No title
お返事を有難う御座います。さて、
>私たちが少数派の権利を尊重するのはわが身に引き換えた時に
>想像される普遍性の故か、または単に摩擦を避けたいがためです。
立憲主義において人権保障が大事なのはなぜだかわかりますか?
そもそも、立憲主義的意味における憲法の定義を御存知ですか?憲法とは、
『公権力の濫用を抑制し、国民の権利を保障するための最高法規』となります。
これは普遍的定義です。つまりですね、かつての封建制や絶対王政の時代における
権力の恣意性によっていかようにも、好きなように国民の権利と義務を操れた時代から、
国民の側から公権力に縛りをかけて、公権力の出来ること、出来ないこと、しなければならないことを規定し、そうすることで、国民の権利を保障するよう指令したものなのです。
ですから、常識とかマナーという多数派の行動様式の多数派の思考形式を持ち出して、
これに公権力によって強制と処罰を加えることは、特に国家のシンボルに関わる場合に、
ナショナリズム、全体主義への道すじに至るステップとなってきたことは歴史を見れば
明らかです。
ここは大事なところですよ。国歌、国旗に敬意を払うのはマナーであるとしますね。
そして、不起立をする教員に対して批判的な声が上がるとします。ここまでは市民同士の評価の問題に留まります。しかし、ここに公権力が強制と処罰をもって介入してくる時に、市民と市民の関係性から、国家権力と市民の関係性へと位相が変わってくるのです。ここに『公権力の濫用を抑制し、国民の権利を保障するための最高法規』であるところの憲法上の人権に絡む問題になってくるのです。そもそも、常識を持ち出すのならば、先進国においては、国歌国旗に敬意を払いたくない人の自由を認めるというのが常識なのです。これは断言できます。
そもそも、usau3さん、少なくとも1999年まで、我々の国の学校では、国歌斉唱というのは
入学式、卒業式では行われていないところがほとんどだったのです。それが慣習でした。ところが、一部の政治家とその意を汲む教育委員会の意向により一方的に導入された経緯があるのです。そして、それ以前は、教員と生徒たちの創意工夫による入学式と卒業式作りの余地が許されていたのです。生徒たちの作った創作物が式場内に飾られ、式次第の構成にも自由裁量の余地が与えられていました。自分たちで作っていく式という要素があったのです。それが、特に東京都においては通達と職務命令により、一切の創意工夫が排除され、式場の配置、式次第、進行の仕方が事細かに規定され、事前に検閲を受け、生徒たちによる創作物は一切式場内に掲げられることは許されないようになり、極めて、教育委員会によって統制された、画一的な式典へと一気に変貌させられたのです。そこに一切の異議を申し立てることは許されない現場になったのです。職員会議においては、それまで当たり前に行われていた挙手、採択による民主的な進行が行われていたのが、ただひたすら管理職の言うことに従うだけの、上意下達の学校へと変容させられました。そういう実態があるのです。
もはや、入学式、卒業式を含めて、学校は到底民主的とは言えないものになっていっているのです。ひたすら、教育委員会の管理と統制に従うだけの教師の群れとさせられているのです。
こんな教育現場への統制がかけられている先進国が、一体どこにありますか?
現代の先進諸国において、国歌斉唱などが入学式、卒業式で行われていない国が多いということ。また、米国の事例を見れば分かるように、不起立の自由が認められ、強制と処罰がなされる先進国などどこにも見当たらないということ。また、一般レベルでも、フランスやイギリスを見ればわかるように国歌斉唱の際に敬意を表さない人たちが普通にいること。中にはブーイングを浴びせてくる同国人がいるということ。
常識やマナーという名の下に、公権力がこれを強制するというのは、立憲主義に基づく人権保障の考え方に照らすと、非常に後進国的であるのだということを再考するべきです。
次に、
>自身の権利のためにより「些少な」他人の権利を侵害しても良いと考えるものは、
国家のシンボルへの敬意を表さないという単なる不作為が、誰の権利を侵害しているのか、
教えてください。件の最高裁判例によっても、不起立という不作為が、誰かの権利を
侵害しているなどという視点は無かったはずですが。人権と人権の衝突という話では
無いですよ。
>フランス革命については、近年では否定的評価をされることが多いと聞きます。
そりゃ、負の側面なんて、革命にはいくらでもありますよ。でもね、立憲主義、民主主義、
自由主義という理念自体を否定するのならば、我が国は、前近代へと後戻りするべきだと
お考えなのですかね。
usau3さんへ
なお、私はクリスチャンではありませんが、キリスト教に殺人教団オーム真理教を比較に出すのは、いささかキリスト教に無礼ではないかと考えます。それから、一度フランス革命について、学習されることをお勧めいたします。
No title
それと、常識とマナーを持ち出すのならば、卒業式において、子供や保護者の側から教師に向けて、謝意を伝えるのも当てはまりますよね。以前は、卒業式の後、謝恩会というのが恒例として
ありましたよね。現在、東京都では、式典の後、当日に行うことを禁じる旨の指導が出ているそうですよ。これは現役の教師から教わりました。つまり、卒業式という子供たちを祝うという
乗除的な要素を排除し、卒業証書授与式という事務的な形式のそれに統制され、既述したように
事細かに規定されたように進行することを義務付けられ、その後に行う謝恩会まで当日は行うなという指導まで出ているとのことです。そうやって別れの日の情緒性を徹底して排除して、1から10まで教育委員会の管理下に置こうという思惑なのです。以前と比べて、ずいぶんと味気ない、無味乾燥な卒業の日になってしまったとのことです。公権力が、そこまで介入するのって、どう考えても、異常だろう。そして、その契機となったのが、君が代強制なのです。その年からガラっと変わってしまったということは、現役教師の書籍を読んでも分かります。usau3さん、
たまには、これに異を唱える教師の側の言い分も書籍等に当たって読んでみてはいかがですか?権力の側からだけでなく、教師の側の言い分も聞かないとフェアじゃないでしょう。実際、現場で何が起こって、何が変わってきたのか、現場の声を聞いてみたいと思いませんか。私は、少なくとも、興味を持ったことについては、現場の声を聞きたいし、それに関する本を読みたいと思いますね。じゃないと、思い込みや、偏見のレベルに留まってしまいますからね。
No title
私は、現在、長らく養護学校の教諭をされてきた河原井純子さんの『学校は雑木林』(白澤社)
という本と、早大の憲法学者、西原博史さんの『学校が「愛国心」を教えるとき』(日本評論者)の二冊を読んでいます。こういった当事者やアカデミズの人たちの経験と識見を知っておくことは、この問題において思考を深める上で有益かと思いますよ。
No title
フォローをいただきありがとうございます。
同時に公権力による強制と処罰の問題点をわかりやすく解いてくださいましたので、わたしの中でも論点が整理できました。併せてお礼を申し上げます。
> 職務命令ならどんな内容でもいいのかって話ですよ。内容を問わず、なんでも従えじゃ、全体主義そのものだろうに。
むしろ全体主義を志向しているのではないかと疑いたくなるときもあります。これほど「他者の自由」に厳しいのは、どうしてなんでしょうね。日常生活で互いに軽く抑圧しあっている(=空気を読みあっている)ので、抑圧が完全に内面化しているのかなとも感じます。
> usau3さん
当方のコメントで、貴コメントを勝手に引用させていただきました箇所について、お返事をいただきましてありがとうございます。
> 導入決定以前に式の進行を無視して日の丸を掲げる参列者がいれば、やはり異様な光景だと思いますし、それが教師で学校の方針が日の丸不掲揚で、抗議行動として頻繁に起きるならなおさらです。
あの、おっしゃってる意味がわかりかねます。学校の方針に逆らった行為であったならば問題だということでしょうか。であるなら、申し訳ないですが、答えになっていませんとしか申し上げられません。そもそも異様だとか、そういう感覚的なお話ではなかったと思いますが。
usau3sさんは
>> 卒業式で一斉起立する際に一人座っているというのは明らかな政治的主張行為であって、それは子供が主役の場にふさわしいものなのかと。
とおっしゃっておられましたよね。これを素直に読めば「子どもが主役の場」に「政治的主張行為」はふさわしくない、と読めます。
ですので、わたしは「ではフリスキーさんのおっしゃるように、それまで日の丸も君が代もなかった卒業式に、それを持ち込んだ事自体は、あなたが”ふさわしくない”と感じた”政治的主張行為”にはあたらないのですか?」とツッコミを入れたわけです。
卒業式で日の丸君が代を拒否する教師に「政治的な主張をするな」とおっしゃるのならば、そもそもその卒業式に日の丸君が代を持ち込むという「政治的な行為」をした側にも同様の批判がなければ、首尾一貫しません。言い換えれば、日の丸君が代拒否を「政治的な行為は卒業式にふさわしくないからやめるべき」と批判なさるのならば、そもそも「日の丸君が代を卒業式に持ち込む」という、「政治的な行為」もやめるべきだと主張しないと、おかしいということです。
これに対して「導入以前に導入しようとしていたら、それは異様だしおかしい」と言うのでは、導入そのものをなぜ問わないのですか、というこちらのツッコミをスルーしてしまっておられます。「導入そのものは問題ない」とおっしゃるのなら、上記の矛盾をどう説明されるのでしょうか?
平たく申し上げれば、日の丸君が代拒否を批判なさりたいのであれば、「政治的な主張を卒業式でするな」という批判は、筋が悪いのでやめたほうがいいということですね(^_^;)
そもそも政治的でない人なんて、この民主主義の社会ではありえないと思うんですけどね(^_^;)
> 自身の権利のためにより「些少な」他人の権利を侵害しても良いと考えるものは、いずれ理念の前には他人の財布や生命さえ軽んじるようになるのではないか、共産主義国家や戦後日本の左翼が歴史に教訓を残したように。
あの、それ日の丸君が代の強制を推進している人たちへのブーメランになっていますよ?自身の「日の丸君が代推進」のために、より「些少な(形だけでも従えばいいだろう、という言葉によく表れていますね)」他人の権利(立ちたくない歌いたくない人の思想両親の自由)を侵害してもいいと彼らは言ってるんですから。
> 思想の自由の普遍性を理解させようという時に、一般常識やマナーや体系的裏付けのない先祖伝来の宗教や社会に根付いた習慣を、自分の尊重する価値観での順位によって簡単に軽んじるべきではないのではないでしょうか。
あの、ひょっとしてusau3さんは伝統や文化や慣習といったものが、立憲主義、人権保障といったものによって侵害されているとお考えなのでしょうか?
確かに、伝統的な儀式や、文化、慣習といったものが、自由主義や人権保障の視点から批判を受け、変質している例は多いです。ですが、それはその伝統や文化、慣習によって抑圧されてきた人たちがいた、そして現在もいるということの現われです。
たとえば「女人禁制」とされたお寺や山が、女性に対しても開かれるというのは、伝統や文化の面から言えば、侵害を受けたと感じられるかもしれません。ですが「女人禁制」の思想には「女性は穢れている」という差別的な認識が根底にある事を忘れてはいけません。女性は長きにわたっていわれのない差別的扱いを受け、その尊厳を侵害されてきたのです。「女人禁制」の撤廃は、その侵害を回復するということなのです。
差別を是正するための社会的な施策が、それまで差別構造の上で成り立ってきた伝統や文化を一部、あるいは完全に破壊するのは事実です。ですがそれを被害であるかのようにしか認識できないのは、それまで一方的な侵害を受けてきた側に対する想像力が、いささか欠けていると申し上げざるを得ません。
もちろん伝統や文化と、人権保障が衝突したとき、やむを得ず伝統や文化の一部を破壊あるいは変質させるとしても、それは最小限度に、慎重に行なわれなければいけないのは当然です。伝統や文化は一度破壊されると二度と元には戻りません。ですが、衝突の解消のために伝統や文化と、人権のいずれを優先させるかは、常に後者でなければなりません。伝統も文化も人がつくり、人のためにあり、人が支えるものです。それが人のために変質するのはむしろ自然な事と言えるのではないでしょうか。
人をないがしろにして伝統や文化を優先するのならば、絶対君主制や奴隷制の復活も可能性としてはありうる事になります。それがなされないのは何故でしょうか。そんな伝統や文化よりも、人々の人権の方が比べるべくもなく大切だからです。
長文、大変失礼しました。
No title
分かる部分も多いのですが。
納得しきれないのは多分、民衆と権力とを完全に対立者として考えている点なのかなと思います。
フランス革命でいえば国王と貴族、聖職者たち特権階級もまた人民であって、民主主義国家以上の不平等もあったし富の収奪もあったけれど富を分配し、統治し、文化を起こし、国を維持する正の役割も果たしていた「国家の一員」のはずです。完全でなかったために彼ら(多数の非特権階級も巻き添えに)が虐殺されたことが正義であり、また弱き人民は不完全であることが許されるということが。
>国家のシンボルへの敬意を表さないという単なる不作為が、誰の権利を侵害しているのか、
うーん。
例えば、式典で礼服やスーツを着ることは体制への盲従であり良心に反する、という考えの人がいたとします。衣服を纏うことすら彼の存在の根幹を傷つけるというような思想的背景があるとか、成長の過程において着衣に関して深刻な精神的トラウマを負っていたとかいうこともあり得ると思います。
他人に着衣拒否を強制はしないし、服を着ないという不作為によって誰も傷つけない。教え子の卒業する姿は式典に出席して見届けたい、と思ったとします。
十分に成熟した社会であれば、彼らに裸での出席を認めるであろうし、その動機が真摯な思想宗教であるのか単に変態性欲によるのかという詮索もしないでしょう。
当初は周囲の反対があるだろうから、彼らが権利のために戦うことは正しい。
しかし裸主義者たちが反対者に対して後進的である、知性・倫理性の面で劣った者たちであると罵倒する様子を見たならば、彼らが真に寛容と多様性を望む人々であるのか疑問に思います。
人類がそもそも衣類を用いなければならない論理的必然性がなく、日本人が近代まで平気で人前で裸になっていた事実があり、現在も裸で生活するのが当然の文化があるとしても、単に着衣が習慣である、とか人前で裸になっちゃいけないと祖父に言われたことがある、とかいう程度のことが個人にとって大変重要な行動原理であり得ると思うのです。
裸主義者の振る舞いによっては裸が多数派の価値観への否定・攻撃として受け止められ、多数派も自身が住みよい社会を守るため戦う権利を行使するでしょう。
>キリスト教に殺人教団オーム真理教を比較に出すのは、いささかキリスト教に無礼ではないか
キリスト教もしばしば殺人教団としての性格を持っていました。
国家の侵略支配の道具としても用いられてきましたから、現在の視点でもって戦中日本政府がキリスト教を弾圧したこと自体を批判するのは不公平な気がします。
洗練された神学体系においてキリスト教が優れているというより、生き延びて拡張した結果神学としてまとめあげられ、また受容された社会に適応してきたと見ることもできると思います。
>思い込みや、偏見のレベル
起立拒否教員が「真っ当でものの分かった大人」であるということにリアリティを感じられるかどうかという点は、立ち位置に大きく影響しますね。身近にそういう人がいないとよく分からない。偏見は正直持ってたかも。
ただ、橋下知事の考える「怠惰で反抗的、職務をおろそかにしている」教員像は偏見であるだろうけれども、教員達が知事にみせた姿はそういうものだったんだろうとも思います。
民主主義においての権力とは結局「私たち(私の、でなくても私と対等なあなた達か誰かの代表)」なのだから、子供が父親に反抗するように、平民が暴君を引きずり下ろすようにではなく、相手が不完全であることを当然の前提として、かつ相手を尊重して対等の議論を目指すべきだと思うのです。
No title
分かる部分も多いのですが。
納得しきれないのは多分、民衆と権力とを完全に対立者として考えている点なのかなと思います。
フランス革命でいえば国王と貴族、聖職者たち特権階級もまた人民であって、民主主義国家以上の不平等もあったし富の収奪もあったけれど富を分配し、統治し、文化を起こし、国を維持する正の役割も果たしていた「国家の一員」のはずです。完全でなかったために彼ら(多数の非特権階級も巻き添えに)が虐殺されたことが正義であり、また弱き人民は不完全であることが許されるということが。
>国家のシンボルへの敬意を表さないという単なる不作為が、誰の権利を侵害しているのか、
うーん。
例えば、式典で礼服やスーツを着ることは体制への盲従であり良心に反する、という考えの人がいたとします。衣服を纏うことすら彼の存在の根幹を傷つけるというような思想的背景があるとか、成長の過程において着衣に関して深刻な精神的トラウマを負っていたとかいうこともあり得ると思います。
他人に着衣拒否を強制はしないし、服を着ないという不作為によって誰も傷つけない。教え子の卒業する姿は式典に出席して見届けたい、と思ったとします。
十分に成熟した社会であれば、彼らに裸での出席を認めるであろうし、その動機が真摯な思想宗教であるのか単に変態性欲によるのかという詮索もしないでしょう。
当初は周囲の反対があるだろうから、彼らが権利のために戦うことは正しい。
しかし裸主義者たちが反対者に対して後進的である、知性・倫理性の面で劣った者たちであると罵倒する様子を見たならば、彼らが真に寛容と多様性を望む人々であるのか疑問に思います。
人類がそもそも衣類を用いなければならない論理的必然性がなく、日本人が近代まで平気で人前で裸になっていた事実があり、現在も裸で生活するのが当然の文化があるとしても、単に着衣が習慣である、とか人前で裸になっちゃいけないと祖父に言われたことがある、とかいう程度のことが個人にとって大変重要な行動原理であり得ると思うのです。
裸主義者の振る舞いによっては裸が多数派の価値観への否定・攻撃として受け止められ、多数派も自身が住みよい社会を守るため戦う権利を行使するでしょう。
No title
フリスキーさん、jeanvaljeanさん
分かる部分も多いのですが。
納得しきれないのは多分、民衆と権力とを完全に対立者として考えている点なのかなと思います。
フランス革命でいえば国王と貴族、聖職者たち特権階級もまた人民であって、民主主義国家以上の不平等もあったし富の収奪もあったけれど富を分配し、統治し、文化を起こし、国を維持する正の役割も果たしていた「国家の一員」のはずです。完全でなかったために彼ら(多数の非特権階級も巻き添えに)が虐殺されたことが正義であり、また弱き人民は不完全であることが許されるということが。
>国家のシンボルへの敬意を表さないという単なる不作為が、誰の権利を侵害しているのか、
うーん。
例えば、式典で礼服やスーツを着ることは体制への盲従であり良心に反する、という考えの人がいたとします。衣服を纏うことすら彼の存在の根幹を傷つけるというような思想的背景があるとか、成長の過程において着衣に関して深刻な精神的トラウマを負っていたとかいうこともあり得ると思います。
他人に着衣拒否を強制はしないし、服を着ないという不作為によって誰も傷つけない。教え子の卒業する姿は式典に出席して見届けたい、と思ったとします。
十分に成熟した社会であれば、彼らに裸での出席を認めるであろうし、その動機が真摯な思想宗教であるのか単に変態性欲によるのかという詮索もしないでしょう。
当初は周囲の反対があるだろうから、彼らが権利のために戦うことは正しい。
しかし裸主義者たちが反対者に対して後進的である、知性・倫理性の面で劣った者たちであると罵倒する様子を見たならば、彼らが真に寛容と多様性を望む人々であるのか疑問に思います。
人類がそもそも衣類を用いなければならない論理的必然性がなく、日本人が近代まで平気で人前で裸になっていた事実があり、現在も裸で生活するのが当然の文化があるとしても、単に着衣が習慣である、とか人前で裸になっちゃいけないと祖父に言われたことがある、とかいう程度のことが個人にとって大変重要な行動原理であり得ると思うのです。
裸主義者の振る舞いによっては裸が多数派の価値観への否定・攻撃として受け止められ、多数派も自身が住みよい社会を守るため戦う権利を行使するでしょう。
>キリスト教に殺人教団オーム真理教を比較に出すのは、いささかキリスト教に無礼ではないか
キリスト教もしばしば殺人教団としての性格を持っていました。
国家の侵略支配の道具としても用いられてきましたから、現在の視点でもって戦中日本政府がキリスト教を弾圧したこと自体を批判するのは不公平な気がします。
洗練された神学体系においてキリスト教が優れているというより、生き延びて拡張した結果神学としてまとめあげられ、また受容された社会に適応してきたと見ることもできると思います。
>思い込みや、偏見のレベル
起立拒否教員が「真っ当でものの分かった大人」であるということにリアリティを感じられるかどうかという点は、立ち位置に大きく影響しますね。身近にそういう人がいないとよく分からない。偏見は正直持ってたかも。
ただ、橋下知事の考える「怠惰で反抗的、職務をおろそかにしている」教員像は偏見であるだろうけれども、教員達が知事にみせた姿はそういうものだったんだろうとも思います。
民主主義においての権力とは結局「私たち(私の、でなくても私と対等なあなた達か誰かの代表)」なのだから、子供が父親に反抗するように、平民が暴君を引きずり下ろすようにではなく、相手が不完全であることを当然の前提として、かつ相手を尊重して対等の議論を目指すべきだと思うのです。
No title
分かる部分も多いのですが。
納得しきれないのは多分、民衆と権力とを完全に対立者として考えている点なのかなと思います。
フランス革命でいえば国王と貴族、聖職者たち特権階級もまた人民であって、民主主義国家以上の不平等もあったし富の収奪もあったけれど富を分配し、統治し、文化を守り、国を維持する正の役割も果たしていた「国家の一員」のはずです。完全でなかったために彼ら(多数の非特権階級も巻き添えに)が虐殺されたことが正義であり、また弱き人民は不完全であることが許されるということが。
>国家のシンボルへの敬意を表さないという単なる不作為が、誰の権利を侵害しているのか、
うーん。
例えば、式典で礼服やスーツを着ることは体制への盲従であり良心に反する、という考えの人がいたとします。衣服を纏うことすら彼の存在の根幹を傷つけるというような思想的背景があるとか、成長の過程において着衣に関して深刻な精神的トラウマを負っていたとかいうこともあり得ると思います。
他人に着衣拒否を強制はしないし、服を着ないという不作為によって誰も傷つけない。教え子の卒業する姿は式典に出席して見届けたい、と思ったとします。
十分に成熟した社会であれば、彼らに裸での出席を認めるであろうし、その動機が真摯な思想宗教であるのか単に変態性欲によるのかという詮索もしないでしょう。
当初は周囲の反対があるだろうから、彼らが権利のために戦うことは正しい。
しかし裸主義者たちが反対者に対して後進的である、知性・倫理性の面で劣った者たちであると罵倒する様子を見たならば、彼らが真に寛容と多様性を望む人々であるのか疑問に思います。
人類がそもそも衣類を用いなければならない論理的必然性がなく、日本人が近代まで平気で人前で裸になっていた事実があり、現在も裸で生活するのが当然の文化があるとしても、単に着衣が習慣である、とか人前で裸になっちゃいけないと祖父に言われたことがある、とかいう程度のことが個人にとって大変重要な行動原理であり得ると思うのです。
裸主義者の振る舞いによっては裸が多数派の価値観への否定・攻撃として受け止められ、多数派も自身が住みよい社会を守るため戦う権利を行使するでしょう。
>キリスト教に殺人教団オーム真理教を比較に出すのは、いささかキリスト教に無礼ではないか
キリスト教もしばしば殺人教団としての性格を持っていました。
国家の侵略支配の道具としても用いられてきましたから、現在の視点でもって戦中日本政府がキリスト教を弾圧したこと自体を批判するのは不公平な気がします。
洗練された神学体系においてキリスト教が優れているというより、生き延びて拡張した結果神学としてまとめあげられ、また受容された社会に適応してきたと見ることもできると思います。
>思い込みや、偏見のレベル
起立拒否教員が「真っ当でものの分かった大人」であるということにリアリティを感じられるかどうかという点は、立ち位置に大きく影響しますね。身近にそういう人がいないとよく分からない。偏見は正直持ってたかも。
ただ、橋下知事の考える「怠惰で反抗的、職務をおろそかにしている」教員像は偏見であるだろうけれども、教員達が知事にみせた姿はそういうものだったんだろうとも思います。
民主主義においての権力とは結局「私たち(私の、でなくても私と対等なあなた達か誰かの代表)」なのだから、子供が父親に反抗するように、平民が暴君を引きずり下ろすようにではなく、相手が不完全であることを当然の前提として、かつ相手を尊重して対等の議論を目指すべきだと思うのです。
No title
分かる部分も多いのですが。
納得しきれないのは多分、民衆と権力とを完全に対立者として考えている点なのかなと思います。
フランス革命でいえば国王と貴族、聖職者たち特権階級もまた人民であって、民主主義国家以上の不平等もあったし富の収奪もあったけれど富を分配し、統治し、文化を起こし、国を維持する正の役割も果たしていた「国家の一員」のはずです。完全でなかったために彼ら(多数の非特権階級も巻き添えに)が虐殺されたことが正義であり、また弱き人民は不完全であることが許されるということが。
>国家のシンボルへの敬意を表さないという単なる不作為が、誰の権利を侵害しているのか、
うーん。
例えば、式典で礼服やスーツを着ることは体制への盲従であり良心に反する、という考えの人がいたとします。衣服を纏うことすら彼の存在の根幹を傷つけるというような思想的背景があるとか、成長の過程において着衣に関して深刻な精神的トラウマを負っていたとかいうこともあり得ると思います。
他人に着衣拒否を強制しないし、服を着ないという不作為によって誰も傷つけない。教え子の卒業する姿は式典に出席して見届けたい、と思ったとします。
十分に成熟した社会であれば、彼らに裸での出席を認めるであろうし、その動機が真摯な思想宗教であるのか単に変態性欲によるのかという詮索もしないでしょう。
当初は周囲の反対があるだろうから、彼らが権利のために戦うことは正しい。
しかし裸主義者たちが反対者に対して後進的である、知性・倫理性の面で劣った者たちであると罵倒する様子を見たならば、彼らが真に寛容と多様性を望む人々であるのか疑問に思います。
人類がそもそも衣類を用いなければならない論理的必然性がなく、日本人が近代まで平気で人前で裸になっていた事実があり、現在も裸で生活するのが当然の文化があるとしても、単に着衣が習慣である、とか人前で裸になっちゃいけないと祖父に言われたことがある、とかいう程度のことが個人にとって大変重要な行動原理であり得ると思うのです。
裸主義者の振る舞いによっては裸が多数派の価値観への否定・攻撃として受け止められ、多数派も自身が住みよい社会を守るため戦う権利を行使するでしょう。
>キリスト教に殺人教団オーム真理教を比較に出すのは、いささかキリスト教に無礼ではないか
キリスト教もしばしば殺人教団としての性格を持っていました。
国家の侵略支配の道具としても用いられてきましたから、現在の視点でもって戦中日本政府がキリスト教を弾圧したこと自体を批判するのは不公平な気がします。
洗練された神学体系においてキリスト教が優れているというより、生き延びて拡張した結果神学としてまとめあげられ、また受容された社会に適応してきたと見ることもできると思います。
>思い込みや、偏見のレベル
起立拒否教員が「真っ当でものの分かった大人」であるということにリアリティを感じられるかどうかという点は、立ち位置に大きく影響しますね。身近にそういう人がいないとよく分からない。偏見は正直持ってたかも。
ただ、橋下知事の考える「怠惰で反抗的、職務をおろそかにしている」教員像は偏見であるだろうけれども、教員達が知事にみせた姿はそういうものだったんだろうとも思います。
民主主義においての権力とは結局「私たち(私の、でなくても私と対等なあなた達か誰かの代表)」なのだから、子供が父親に反抗するように、平民が暴君を引きずり下ろすようにではなく、相手が不完全であることを当然の前提として、かつ相手を尊重して対等の議論を目指すべきだと思うのです。
No title
分かる部分も多いのですが。
納得しきれないのは多分、人民と権力とを完全に対立者として考えている点なのかなと思います。
フランス革命でいえば国王と貴族、聖職者たち特権階級もまた人民であって、民主主義国家以上の不平等もあったし富の収奪もあったけれど富を分配し、統治し、文化を起こし、国を維持する正の役割も果たしていた「国家の一員」のはずです。完全でなかったために彼ら(多数の非特権階級も巻き添えに)が虐殺されたことが正義であり、また弱き民衆は不完全であることが許されるということが。
>国家のシンボルへの敬意を表さないという単なる不作為が、誰の権利を侵害しているのか、
うーん。
例えば、式典で礼服やスーツを着ることは体制への盲従であり良心に反する、という考えの人がいたとします。衣服を纏うことすら彼の存在の根幹を傷つけるというような思想的背景があるとか、成長の過程において着衣に関して深刻な精神的トラウマを負っていたとかいうこともあり得ると思います。
他人に着衣拒否を強制しないし、服を着ないという不作為によって誰も傷つけない。教え子の卒業する姿は式典に出席して見届けたい、と思ったとします。
十分に成熟した社会であれば、彼らに裸での出席を認めるであろうし、その動機が真摯な思想宗教であるのか単に変態性欲によるのかという詮索もしないでしょう。
当初は周囲の反対があるだろうから、彼らが権利のために戦うことは正しい。
しかし裸主義者たちが反対者に対して後進的である、知性・倫理性の面で劣った者たちであると罵倒する様子を見たならば、彼らが真に寛容と多様性を望む人々であるのか疑問に思います。
人類がそもそも衣類を用いなければならない論理的必然性がなく、日本人が近代まで平気で人前で裸になっていた事実があり、現在も裸で生活するのが当然の文化があるとしても、単に着衣が習慣である、とか人前で裸になっちゃいけないと祖父に言われたことがある、とかいう程度のことが個人にとって大変重要な行動原理であり得ると思うのです。
裸主義者の振る舞いによっては裸が多数派の価値観への否定・攻撃として受け止められ、多数派も自身が住みよい社会を守るため戦う権利を行使するでしょう。
No title
長すぎるせいでしょうか?
No title
フリスキーさん、jeanvaljeanさん
分かる部分も多いのですが。
納得しきれないのは多分、民衆と権力とを完全に対立者として考えている点なのかなと思います。
フランス革命でいえば国王と貴族、聖職者たち特権階級もまた人民であって、民主主義国家以上の不平等もあったし富の収奪もあったけれど富を分配し、統治し、文化を起こし、国を維持する正の役割も果たしていた「国家の一員」のはずです。完全でなかったために彼ら(多数の非特権階級も巻き添えに)が虐殺されたことが正義であり、また弱き人民は不完全であることが許されるということが。
>国家のシンボルへの敬意を表さないという単なる不作為が、誰の権利を侵害しているのか、
うーん。
例えば、式典で礼服やスーツを着ることは体制への盲従であり良心に反する、という考えの人がいたとします。衣服を纏うことすら彼の存在の根幹を傷つけるというような思想的背景があるとか、成長の過程において着衣に関して深刻な精神的トラウマを負っていたとかいうこともあり得ると思います。
他人に着衣拒否を強制はしないし、服を着ないという不作為によって誰も傷つけない。教え子の卒業する姿は式典に出席して見届けたい、と思ったとします。
十分に成熟した社会であれば、彼らに裸での出席を認めるであろうし、その動機が真摯な思想宗教であるのか単に変態性欲によるのかという詮索もしないでしょう。
当初は周囲の反対があるだろうから、彼らが権利のために戦うことは正しい。
しかし裸主義者たちが反対者に対して後進的である、知性・倫理性の面で劣った者たちであると罵倒する様子を見たならば、彼らが真に寛容と多様性を望む人々であるのか疑問に思います。
人類がそもそも衣類を用いなければならない論理的必然性がなく、日本人が近代まで平気で人前で裸になっていた事実があり、現在も裸で生活するのが当然の文化があるとしても、単に着衣が習慣である、とか人前で裸になっちゃいけないと祖父に言われたことがある、とかいう程度のことが個人にとって大変重要な行動原理であり得ると思うのです。
裸主義者の振る舞いによっては裸が多数派の価値観への否定・攻撃として受け止められ、多数派も自身が住みよい社会を守るため戦う権利を行使するでしょう。
No title
フリスキーさん、jeanvaljeanさん
分かる部分も多いのですが。
納得しきれないのは多分、民衆と権力とを完全に対立者として考えている点なのかなと思います。
フランス革命でいえば国王と貴族、聖職者たち特権階級もまた人民であって、民主主義国家以上の不平等もあったし富の収奪もあったけれど富を分配し、統治し、文化を起こし、国を維持する正の役割も果たしていた「国家の一員」のはずです。完全でなかったために彼ら(多数の非特権階級も巻き添えに)が虐殺されたことが正義であり、また弱き人民は不完全であることが許されるということが。
No title
うーん。
例えば、式典で礼服やスーツを着ることは体制への盲従であり良心に反する、という考えの人がいたとします。衣服を纏うことすら彼の存在の根幹を傷つけるというような思想的背景があるとか、成長の過程において着衣に関して深刻な精神的トラウマを負っていたとかいうこともあり得ると思います。
他人に着衣拒否を強制はしないし、服を着ないという不作為によって誰も傷つけない。教え子の卒業する姿は式典に出席して見届けたい、と思ったとします。
十分に成熟した社会であれば、彼らに裸での出席を認めるであろうし、その動機が真摯な思想宗教であるのか単に変態性欲によるのかという詮索もしないでしょう。
当初は周囲の反対があるだろうから、彼らが権利のために戦うことは正しい。
しかし裸主義者たちが反対者に対して後進的である、知性・倫理性の面で劣った者たちであると罵倒するさまを見たならば、彼らが真に寛容と多様性を望む人々であるのか疑問に思います。
人類がそもそも衣類を用いなければならない論理的必然性がなく、日本人が近代まで平気で人前で裸になっていた事実があり、現在も裸で生活するのが当然の文化があるとしても、単に着衣が習慣である、とか人前で裸になっちゃいけないと祖父に言われたことがある、とかいう程度のことが個人にとって大変重要な行動原理であり得ると思うのです。
裸主義者の振る舞いによっては裸が多数派の価値観への否定・攻撃として受け止められ、多数派も自身が住みよい社会を守るため戦うでしょう。
No title
これの返事がだめみたいです。NGワードがあるのでしょうか?
>キリスト教に殺人教団オーム真理教を比較に出すのは、いささかキリスト教に無礼ではないか
キリスト教もしばしば殺人教団としての性格を持っていました。
国家の侵略支配の道具としても用いられてきましたから、現在の視点でもって戦中日本政府がキリスト教を弾圧したこと自体を批判するのは不公平な気がします。
洗練された神学体系においてキリスト教が優れているというより、生き延びて拡張した結果神学としてまとめあげられ、また受容された社会に適応してきたと見ることもできると思います。
>思い込みや、偏見のレベル
起立拒否教員が「真っ当でものの分かった大人」であるということにリアリティを感じられるかどうかという点は、立ち位置に大きく影響しますね。身近にそういう人がいないとよく分からない。偏見は正直持ってたかも。
ただ、橋下知事の考える「怠惰で反抗的、職務をおろそかにしている」教員像は偏見であるだろうけれども、教員達が知事にみせた姿はそういうものだったんだろうとも思います。
民主主義においての権力とは結局「私たち(私の、でなくても私と対等なあなた達か誰かの代表)」なのだから、子供が父親に反抗するように、平民が暴君を引きずり下ろすようにではなく、相手が不完全であることを当然の前提として、かつ相手を尊重して対等の議論を目指すべきだと思うのです。
No title
そもそも卒業式に日の丸を持ちこむべきでない、という議論は理解できます。「卒業式で」起立拒否する行為は摩擦を呼んで不思議はないだろう、ということです。
うまく投稿できない部分なんですが…
>あの、それ日の丸君が代の強制を推進している人たちへのブーメランになっていますよ?
もちろん、強制推進に積極的に賛成しているわけではありません。
>伝統や文化や慣習といったものが、立憲主義、人権保障といったものによって侵害されているとお考えなのでしょうか?
yesです。
自由と民主主義にはリスクと代償があるけれど、それを上回る利益があるから我々はそれを支持するのです。
>ですが、衝突の解消のために伝統や文化と、人権のいずれを優先させるかは、常に後者でなければなりません。
中東からの留学生をつかまえて先祖が民衆から不当に奪って蓄えた財産を返却せよとせまるべき、力士志望の女性は観衆を押しのけて無理やりに土俵に乗りこむべきなのか。
利害の衝突による被害を最小にするために、また利害調整にかかるコストを省くために、社会の構成員が共有できる価値基準として憲法や人権という概念が用いられるのあって、
>常に後者
としてすべてに優先する目標に定めるものではないと思っています。
伝統や文化もまた人間が幸福に暮らしていくためのシステムで、常にその保持を目的として生きるべきとはいえない、普遍性においては「人権」より劣るかもしれないけれど必要なものです。
絶対君主制の復活は可能性としてはあり得ると思います。君主が善政を敷いて民主主義国家より国民を幸福にできたとしても、システムとして安定しないのが問題です。それを解決できるなら。
民主主義は、現時点で私たちが手に入れた最良の制度だろうけれども、それは暫定的なものにすぎないかも、と思う。
No title
まず、一点指摘させて頂きます。
>現在の視点でもって戦中日本政府がキリスト教を弾圧したこと自体を批判するのは
>不公平な気がします。
まったく外れです。あなたは日本の近現代史とキリスト教の関わりについて初歩的なところから勉強するべきです。
そもそも、明治以降、大日本帝国によって統制の対象になったのは、キリスト教に限らず全ての宗教です。最初の動きは、仏教に対するものでしたね。いわゆる廃仏毀釈。江戸時代に宗門人別制度が導入されて、民衆は必ずどこかの寺に檀家として登録することを義務付けられ、寺を通して人民の管理をしていました。ですから形式的には日本人は皆仏教徒となっていました。明治政府によって、天皇主権の元、国家神道イデオロギーが作られ、これによって新たに天皇の下に統合された国民国家を作っていこうとしたのです。邪魔だった仏教を排斥しようとしたわけですが、これは数年で沈静化していきました。その後、1930年以降、軍国主義、ナショナリズムの高まりの中で、
皇民化政策の一環として、現人神である天皇主権と国家神道の元、全ての宗教をその傘下におさめ、統制の対象とされていきました。国家神道とは相容れない教義を持つ宗教にまで、宮城遥拝、神社への参拝、日の丸、君が代、御真影への敬礼の強制が徹底され、従わないものは、不敬罪、治安維持法違反などで検挙されていきました。それはキリスト教に限らず、創価学会や大本教などの新宗教も弾圧を受けましたね。創価の牧口さんなど獄死しましたね。
そもそも、明治以降のキリスト教の日本における、教育、医療、福祉、貧民救済などに果たした
役割は非常に大きかったです。医療と教育に貢献したヘボン博士、救貧活動に献身し、様々な社会運動によってノーベル平和賞の最有力候補にもなった賀川豊彦、救らい活動のさきがけとなったテストウィード神父など枚挙に暇がありません。日本の近代化において、日本のキリスト教が一体どのように殺人教団としての側面を見せていたのか、まったく史実に異なる性質の悪いデマです。
当時の視点をもってしても、キリスト教のみならず宗教への統制と弾圧は、軍国主義と国家神道に国民を従属せしめるための、当時の官憲による、信教の自由の否定であり、思想統制であり、そんなものに肯定的評価をすることは、民主主義と自由主義(人権保障)に立つ限り、到底認められるべきものではないですよ。
No title
引き続き応答をいただきありがとうございます。
> 「卒業式で」起立拒否する行為は摩擦を呼んで不思議はないだろう、ということです。
はい。卒業式に日の丸や君が代を持ち込めば摩擦が生じる事は、導入が検討された頃から、導入に反対する人たちによって、散々に指適されてきた事です。にもかかわらず導入され、結果懸念されたとおりに摩擦が生じています。では、なぜ「摩擦が生じると分かっていながら、卒業式に日の丸君が代を持ち込んだ側」の問題が指摘されないのか、という事です。
> 中東からの留学生をつかまえて先祖が民衆から不当に奪って蓄えた財産を返却せよとせまるべき、力士志望の女性は観衆を押しのけて無理やりに土俵に乗りこむべきなのか。
何を仰っているのかよくわかりません。その中東の留学生本人が不当な手段で他人から財産を奪ったのなら、それは犯罪ですからその場で取り締まればいいでしょう。しかし先祖の罪に対して、その留学生本人に責任があろうはずがありません。彼に責任のない事で彼を断罪する事はできません。これも人権保障の考え方のひとつです。しかも「不当に財産を奪われた民衆」がいるのは留学生の母国であって、万が一それが断罪されうるとしても、母国の法律においてなされるでしょう。日本には他国の民衆の、過去に渡る財産を保護する権利も義務もありませんから。たとえとしては、いささか無理があるかと。
ちなみに女子相撲と言うのは、規模は小さいながら既に競技として存在しますよ。
http://bit.ly/lMvzvD
…かつて大阪府知事だった太田房江さんが、大阪場所の表彰式で、土俵に上がれなかったということがありました。日本相撲協会いわく、土俵は女人禁制が伝統であると。先述しましたが、女人禁制の根底には「穢れ」に基づく女性差別があります。いいかえれば日本相撲協会は太田房江さんに対して「お前は穢れているから土俵に上がるな」と言ったに等しいことをしたのです。わたしはこれが伝統や文化の面からやむをえないことだとはどうしても思えませんでした。女性に対する差別を伝統や文化でもって追認し、再生産しているようにしか見えなかったのです。相撲協会の物言いは「男は仕事女は家庭」とどこが違うのでしょうか。
確かに女性が土俵に上がることを厭う人は多いです。一足飛びに土俵の女人禁制が撤廃されることはないでしょう。でも、将来的には撤廃される方向へ進んでいくことが必要だとわたしは考えています。
相撲はそもそも神前奉納されたのが始まりとされていますが、黎明期においてはいまよりももっと激しい格闘技だったそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%92%B2
弥生時代には蹴り技もあったそうで、昭和にスポーツとして整備されるまで、死者が出ることもめずらしくなかったそうです。「伝統」や「文化」も時代と共に変化します。文化が今ある形になるまでには、先人たちの血のにじむような努力と試行錯誤がありました。それは翻って言えば、今後も何らかの形で、社会の中のあり方によって、伝統も文化も変化しうるということなのではないでしょうか。今ある形の文化が全てではないと思います。変化を否定すれば、それは文化そのものの発展を否定してしまう側面もあるでしょう。
> 普遍性においては「人権」より劣るかもしれないけれど必要なものです。
ええ、同意します。ですからわたしも「慎重に」と申し上げました。ですが、伝統や文化の下で抑圧されている人たちがいて、その人たちが救いを求めているのならば、それは救済されるべきだろうと考えています。
> 君主が善政を敷いて民主主義国家より国民を幸福にできたとしても、システムとして安定しないのが問題です。それを解決できるなら。
不老不死の名君がいれば、人類はあるいは幸福に生きてゆけるのかもしれませんね。ですがそれさえも、名君一人が社会の責任をひとり過重に負担せねばならないという不正義を内包します。ひとり孤独に社会の責任を一人で永久に背負い続けなければならない名君のことを思うとき、わたしはそれが最良の制度だとは到底思えないのですが。
もちろん、今後民主主義を上回る社会運営のシステムが考案される可能性はありますし、それがわたしも賛同できるものならば、わたしもそれを支持するにやぶさかではありません。ですが、現状影も形も存在しないものを社会運営の上で考慮に入れる事はできませんよね。
横から失礼
国家の侵略支配の道具としても用いられてきましたから、現在の視点でもって戦中日本政府がキリスト教を弾圧したこと自体を批判するのは不公平な気がします。
負の面しか見ていないような気がしてなりませんね、あるいは右翼にとって都合のいい部分。フリスキーさんがおっっしゃっているように、軍国主義、国家神道を広める為のものであり、キリスト教が、どんな集団かなんて当時の政府にとってはどうでもいいんですよ。
>そんなものに肯定的評価をすることは、民主主義と自由主義(人権保障)に立つ限り、到底認められるべきものではないですよ。
同感です。人権いらないって言っているのと同じですよ。
usau3さんへ
> 納得しきれないのは多分、民衆と権力とを完全に対立者として考えている点なのかなと思います。
> 人民とは、peupleの日本語訳で、つまり僧侶・貴族身分にたいする平民・第三身分のことです。ですから国王はもちろんのこと、聖職者・貴族は人民ではありません。封建制における(貴族のための)文化は、人民の犠牲の上に築かれました。富の分配はおこなわれませんでした。人民は領主に対する地代(農民の場合)、国と教会が徴収する税金を納め、道路補修などの賦役にかり出されました。つまり98%が2%を養っていたのです。権利については無だったのです。身分がなくなり、すべてが人民になって、私たちが享受している人権が生まれたということです。
No title
ただ民主主義の良さというのはすべて相対的なものであって絶対的なものとはいえないんじゃないか、というのが私の疑問です。
キリスト教がオウム教より社会に受け入れられているのは、教育、医療、福祉、貧民救済などに果たした役割がキリスト教の方がオウム教より大きいからで、「近代日本で」神の名のもとに殺人をしたキリスト教徒がオウムより少ないからです。
しかし当時の日本人にとっては外国の脅威ははるかに大きく、近い過去に非キリスト教国家を蹂躙してきた西洋諸国が敗者に対してそれほど寛容だということを「偏見を持たずに」判断することは今より難しかったわけで、事後的に判断すれば明らかな過ちであった帝国主義も、私たちの父祖の知的道徳的劣性によって選択された、というような見方は一方的じゃないかということです。
もし明治政府が中央集権国家を目指すかわりに民主主義を選択し、しかもそれが今の国会のような機能しか果たせなかったら。誰も重要な決定が下せず、実行は遅延し有効性を持たなければ、独立を保つことも難しかったかもしれない。
ハワイやフィリピンのようにアメリカの支配下におかれた場合、多少はアメリカによる婦女暴行事件や抵抗勢力の蜂起で流血沙汰があり、しばらく2等国民扱いされた後でも、いずれは人権と主権を認められるでしょう。人口の8割くらいはキリスト教徒になって、日本語はまだあるけれど英語も公用語で、伝統的文化がどの程度残るかは何ともいえないけれど独立記念日には周辺諸国に気がねすることなく存分に祝い、時にはアメリカ国旗を焼いて謝罪と賠償を求めたりする。
その方が断然良い、という意見があるのは分かりますが、インドや南米の状況(あるいは自らの歴史)を知る当時の人ならもっと悪い未来を想像したはずだし、実際に複数の国家に分断され今も流血の絶えない国であったかもしれない。
中東の留学生の例えは、フランス革命が賛美されるべきかどうかという関連での疑問です。
まあまあ上手くいっている帝国主義国家があったとして、少数の(数によって軽視されるべきでない)抑圧された不幸な国民がいれば、民主主義的理念をもっていれば、怒りのままに武器をもって王侯貴族を惨殺し王宮に火を放つことが正しいのか。結果が国土の荒廃でも。少数の不幸を許容する多数の幸福より平等な不幸の方が望ましいのか。いずれ平等な不幸の中に格差が生まれるとしても。
フランスの周辺に議会制民主主義を育てつつある国がなく、フランスが単独で存在していたならばナポレオンの後に有効に機能する民主国家が誕生し得たか、フランス革命が世界の民主化を促進させたか、反動勢力を勢いづけたかは議論の余地があるところだと思います。
フランス革命の全面肯定と、正しさを用いるにあたっての十分な慎重さ、と両立するのが難しいように感じます。
起立の話からだいぶずれてしまってすみません。
No title
また例え話で恐縮ですが、式典で礼服やスーツを着ることは体制への盲従であり良心に反する、と思う人がいたとします。
衣服を纏うことすら彼の存在の根幹を傷つける思想的背景があるとか、着衣に関して深刻な精神的トラウマを負っているとかいうことはあり得ると思います。
他人に着衣拒否を強制しないし、服を着ないという不作為によって誰も傷つけない。教え子の卒業する姿は式典に出席して見届けたい、という。
十分に成熟した社会であれば、彼らに裸での出席を認めるだろうし、その動機が真摯な思想宗教であるのか否かの詮索もしないでしょう。
彼らが戦うことは正しい。
けれども単に着衣が習慣である、とか人前で裸になっちゃいけないと祖父に言われたことがある、とかいう程度のことが個人にとっては非常に大切な理由であり得る。
人類がそもそも衣類を用いなければならない論理的必然性がなく、日本人が近代まで平気で人前で裸になっていた事実があり、現在も裸で生活するのが当然の社会があるとしても。
裸で出席した彼らが裁判で権利を争うのは良いと思います。
けれども彼らが裸を非難する人たちに対して「愚かで、後進的である」と罵倒する姿に共感を覚えることはできないし、裸が問題になったあと禁止が定められた場所で抗議の意をこめて着衣拒否を繰り返す姿にも。不愉快な隣人のように振る舞うのではなく、皆の合意を得ることを目指すべきだと思う。
私にとって着衣拒否者と起立拒否者との差は集団に占める数と慣習からの逸脱の程度で、そのため後者の方が受け入れやすく、着衣強制には多分賛成票を投じてしまうし起立強制には反対です。
個人的には慣習は思想宗教とも不可分のものであると思いますが、原理的に不起立が憲法によって守られ、正しいものだとしても、それにより多数派への配慮を不要のものとするならむしろ共有財産としての憲法の存在を危うくする可能性もあると思います。
No title
現在の視点で見るのはおかしい!!って意見はネトウヨからよく聞くせりふですが・・・今の視点でもって批判しないで、「当時はこうだったんだからしかたないよね!!」って言っていたらいつまで経っても進歩しませんよ。
大体、あなたは「過去の」出来事であるはずのキリスト教徒が非キリスト教徒を弾圧したことを否定しているじゃないですか。あなたの論理で行くなら、その弾圧行為だって「当時のキリスト教徒から見たら、非キリスト教徒は野蛮だったんだから仕方ないよね!!」ってことになりますが・・。
No title
例え話が極端すぎて意味がわからない。話の論点をずらそうとしているように思えてなりません。たとえ話に使うなら、妄想でなく現実としてあるものを持ってきてほしい物です。
あなたからすると裸になりたい人と国歌を歌いたくない人は同列なわけですね?
No title
>キリスト教がオウム教より社会に受け入れられているのは、
>教育、医療、福祉、貧民救済などに果たした役割がキリスト教の方が
>オウム教より大きいからで、「近代日本で」神の名のもとに殺人をした
>キリスト教徒がオウムより少ないからです。
あなた、言ってることが滅茶苦茶です。近現代の日本のクリスチャンの中で、神の名の下に殺人をした人って誰がいますか?事例を挙げてください。てか、いませんよ。
そもそも、宗教を信じていても、その宗教で解かれる教義に反して罪を犯す人はいます。
日本の犯罪史を見ていれば、仏教の僧侶で殺人を犯したケースも出てきます。しかし、それは
仏の名の下に殺人を犯したわけではありません。仏教には不殺生戒というものがありますので、
それはやってはいけないことなのです。根本的な教義によって戒められていることなのです。
しかし、個人がそこから脱線して罪を犯したというだけです。仏の教えとは関係がありません。
また、キリスト教においても、教えを遡ればモーセの十戒によって、「汝、ころすなかれ」という
戒めが神より与えられているとしているのです。仏教の始祖である釈迦牟尼世尊、キリスト教の始
祖であるイエス・キリスト、いずれも、人をころすことを厳しく戒めています。
ところが、いっぽうオウム真理教の場合は、教祖である麻原自身によってポアという用語の元、
人をころすことを正当化することが教義化されていたのです。
ですから、宗教について考える場合、まず、その教祖の教えに遡り、教義を知ることが大事です。
オウム真理教のように、教祖によって説かれた教義として殺人を肯定化したカルト宗教と、釈迦や
キリストのオリジナルの教えから生まれた教義(仏教の場合は、さらに各宗派の始祖に分けられる
と思いますが)を持つ宗教を同列に並べて、程度の違いとして論じることはまったくナンセンスで
す。
キリスト教を殺人宗教とするからには、キリスト教の教義の中のどこに殺人を肯定化する教えが
あるのか、新約聖書のどこにそんなことが説かれているのか、教えてください。いや、あなたに
聞いても仕方ないですね。ありませんから(キッパリ)。仏教にもありません(キッパリ)。
いっぽう、仏教を名乗りながら、そこを大きく逸脱し、麻原が独自の教義を打ち出して、殺人を肯
定化するような教えを信者に吹き込んで実行にまで駆り立てたオウム真理教にあるというだけです
。
何度でも言いますが、オーソドックスな宗教と反社会的行為を正当化する教義を持つ極端なカルト
宗教を同列に扱うのは、論外ですよ。
なお、戦前の宗教への統制と弾圧ですが、もっとも激しかったのは大本教へのものです。これは
純然たる日本の宗教で教派神道の一派です。大本への弾圧は熾烈を極め、施設を焼き払い、信徒をこぞって連行し、拷問死者や気が狂う者が続出し、壊滅状態にさせられたというのは史実です。要するに、当時の軍国主義と国家神道イデオロギーの元に統制し、これに反発しようものなら内外の宗教を問わず激しい弾圧を受けたということです。その点、大半のキリスト教会は、このような弾圧は受けませんでした。戦時中も通して礼拝は行うことが出来ていました。それは大半のキリスト教会が官憲の統制に服していたからです。実はこの大人しく服していたということについて、戦後、プロテスタント教会は、自身が軍国主義に抗えなった点を懺悔し、戦争責任の一端を自分たちが担うという旨の告白の声明を出しているのですが、ここを語ると長くなるので端折ります。
usau3さんは、キリスト教のことを何も知らないです。以前から、指摘しましたが、まずあなたに必要なのは、基礎的な知識を身に付けることです。そこが圧倒的に欠けています。それどころか間違った知識から断定的に物事を論じてしまっています。これは、あなたの文章を読む他者に対しても、知に対しても、不誠実な態度に他なりません。もう宗教については、これ以上ここであなたが論じても不毛かと思います。
出遅れてすみません。管理人です
人権の歴史についてはご自分で勉強してください、とだけ言っておきましょう、あまりにも基礎的な「公民」の授業の話ですので。
ホッブズ、ジョン・ロック、J・J・ルソーくらいの名前は聞いたことがおありになると思います。
>起立拒否の話にもどります。
また例え話で恐縮ですが、式典で礼服やスーツを着ることは体制への盲従であり良心に反する、と思う人がいたとします。
AGENさんの仰るとおり、たとえにもならないたとえですね。こういう無意味なたとえを出してきて延々議論を引っ張ろうとするのを「議論のための議論」と申します。言い負かすためだけに論を立てるのは、とても身のある議論とは言えません。
今のうちに手を打たないと…
なんと、自公+共産党という、正気の沙汰とは思えないと笑ってしまいそうになる共闘なのだが、結果は惜敗したとのことだ。
私は、その相手が民主党関係かと一瞬考えたが、あー、あそこならやはり橋下か!と、得心し、心底悔しがると共に、彼らの勇気に賛同した。
公明と共産党…つまりは世間から引かれてしまう、拒絶政党で、かつ、犬猿の仲である。それに自民党、私に言わせれば、阿鼻叫喚のセット!でなければ、この候補者は余程の好人物か何かだろうと考えてしまうのだが、相手が橋下である限り、当然の成り行きだったろう。
自民党と維新の会との精神的な距離間は、自民党と、公明や共産党とのそれよりはだいぶ近いのは論を待たない。それでも、自民党は民主、社民党に加え彼等とも組んで戦った。ここに選挙結果はともかく、救いがまだあると感じた!
橋下とその手先議員らはプチ・ナチスであり、自分たちさえ気持ちよければ人権や制度・伝統等、私たちの生活で配慮すべきものを圧殺しても一顧だにしない、ならず者だ!
法のすれすれ覚悟で、橋下人気を引きずり落とすしか、今の集団催眠状態と化した大阪府民を目覚めさせる手だてはなさそうだ。
奴らは、世間が考えるほど『お上品』ではないだろう!たかだか国歌を歌わない先生を一回歌わないと…と生活そのものを奪う脅しを『合法的に』しかけてくる、そのやり口。そういえばナチスだって合法的に、しかも社民党議員を逮捕したり、なぶりものにしながらも国会で反対させて、きちんと全権委任法を可決した(笑)。
橋下はヒトラーほどのカリスマや、ましてや政治センスはないが(笑)、本質は大差ない。マイノリティや、てめぇに都合が悪い、いや、そうだ!多分、虐めやすいとかのレベルでなく、彼にとっては『いじりやすい』対象を、『多少エキセントリックに』批判することで、世間のフラストレーションをガス抜きして生きているにすぎない程度の気分屋であろう。それ故にか、彼が今度は府知事を辞めて大阪市長にくら替えとか言われているくらいだ。
だが、その程度の人に餌食にされる対象…それを看過したり、あげく煽る大衆、てめぇの保身か売名かの為について踊って『維新の会』に組した議員たち[間違いなく、自民党などに『行きそびれた』あぶれ者とかだろう。まかり間違っても、市民派とか環境問題とかの活動家云々ではないね(笑)]が蔓延るのは、たとえ、たとえ、ガキの頃から大嫌いな『大阪』であっても許せない!
駄文を書き散らしたが、このサイトの筆者さんが指摘される通り、大阪府から広まることが、ヤバイのだ。で、かなりその恐れありだ。
東京には死に損ないのマッチョ右翼民族派知事がいるし、千葉や埼玉にはその出来損ないがいる。
相変わらず、それが誇張された何かがあるとしても、とんちんかんな愛国者気取りで右翼がネットで騒いでいる。産経グループは新聞は諦めているから、さぞや嬉しいのか知らんが、今の若い奴らが腰を据えて様々な立場の本を読んで『考える』ようなことを、このネット時代にするかは怪しいもの…。
戦争が、今時のスケール、バリエーションで再開される日もそう遠くないやもしれない。
私はパシフィスト?というか、頑なな護憲論者ではない。しかし、橋下や慎太郎信者、ネット右翼とかの跋扈を見聞するにつれ、念のためにも『護憲やむなし』と再考するようになってきた。
>北欧社民シンパさん
今こそニーメラーの警句を思い起こさなくてはいけませんね。
かつてこんなエントリーを書きました
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-219.html
>私はパシフィスト?というか、頑なな護憲論者ではない。
>しかし、橋下や慎太郎信者、ネット右翼とかの跋扈を見聞するにつれ、
>念のためにも『護憲やむなし』と再考するようになってきた。
実は、私も以前は頑なな護憲論者ではありませんでした。
しかし、
現実の政治動向、改憲論者の主張、考え方を知るにつけ、こりゃあ、
憲法変えたらあぶねぇやって考えに至りました。
要するに、『歯止め』『ストッパー』としての憲法は大事だなと言う思いが
強まっていく一方です。現状でさえこうなんだから、憲法変えちゃうと、
タガが外れてずるずると右旋回しちゃうぞという思いです。
人権があぶねぇやって思いです。
どうしても憲法を変えたいのなら、その前にやることがあります。
憲法とは何か、民主主義とは何か、人権とは何か、
そういった憲法教育を欧米のように義務教育からきちんと行っていくべきです。
どういうわけか、そこを日本は戦後の数年だけで辞めてしまったんです。
なんで辞めちゃったんでしょうね・・・
まず、公権力に対する歯止めとしての憲法の意義、
人権の意義を国民に対して知らしめるための
教育をしていく。そこが先でしょうね。
余談ですが、私は憲法変えたいですよ
第一章を、1条の国民主権の部分を除いて削除するのです。
より民主主義が徹底しますでしょ?
笑われ者のニッポン
今ナチスドイツと勘違いしているんじゃないか。